五月一日 芹九州大会 柳川 川下り 西へ西へ旅をつづけて夏の蝶 白秋碑、帰去来の詩を刻す 帰去来はわが心にも夏の蝶
『芹』 |
明治40年(1907年)8月1日、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は白秋の家に泊まった。 |
筑後の柳河まで来た。海を控へて水田と川との多い土地だ。北原氏に宿る。即ち我等が一人なるH生の家だ。H生の一家は東京から客人を連れて長男が帰ると云ふので、室内の装飾やら、寝具の新調やら、非常の騒ぎをして歓待の準備が頗る整頓して居る。それで我らに面会のため他郡から出掛けて泊り込む者もあるので、台所では祭礼の日のやうな混雑だ。裏の幾十間と続く酒倉では、多くの倉男が眠むたげな調子で唄ひながら、渋を採るため青柿を呑気に臼で舂く。宛(さなが)ら母屋の騒ぎとは別世界だ。
「五足の靴」(潮) |
8月16日、5人は再び白秋の家を訪れ2泊する。 |
東京からは早く帰れと云ふ、そこへ旅費も何うやら心細く成る。折角思立つたことだが薩摩大隅に遊ぶことを断念して帰途に上る。で再び筑後の柳河に来て沖の端の北原氏宅に二泊する。
「五足の靴」(みやびを) |
北原白秋は明治18年1月25日、柳川市沖端(おきのはた)の造り酒屋を営む商家に生まれました。白秋は中学伝習館(現高校)に学び早稲田大学英文科予科に入学。号を射水と称し、若山牧水・中林蘇水らと早稲田の三水と称されました。明治42年、『邪宗門』をあらわし、その2年後に『思い出』が出版されるや、たちまち世の賞賛をあび、詩壇に確固たる地位を築き、近代日本の詩聖とうたわれるようになりました。 生家は、昭和34年の大火で大部分が焼失しましたが、昭和44年11月、「北原白秋生家保存会」により復元。白秋の文学資料や遺品を展示し、一般に公開を開始しました。また昭和60年には、白秋生誕百年記念事業として敷地内に歴史民俗資料館(白秋記念館)を開館。柳川の歴史・民俗から白秋の世界までを展示室ごとに構成した資料を公開し、白秋を深く理解する上でも欠かせない資料館となっています。 北原白秋生家は、昭和43年10月、福岡県史跡に指定されました。 |
柳河の雨 その翌日猶雨降り止まざりしかど、なつかし ければ柳川に來りぬ。明治四十年八月、北原 白秋、木下杢太郎と遊びてより、既に早く五 十年の歳月は過ぎたり。往時紀行文「五足の 靴」を書きし友はおほかた世を去り、空しく 殘れるはわれ一人のみ 思へらくかばかり細くひそやかに柳に降るは白秋の雨 柳河の蒸し蒸籠のうなぎ飯食(は)みてわれのみ生くる寂しさ 沖の端の家にむかしの記憶あり白秋生家と彫れる石建ち 佃煮の工場となれる友の家のまへにたたずむわれひとり生き
「『形影抄』以後」 |