寿永2年(1183年)7月、平家は都落ちし、8月、宇佐神宮を経て太宰府に入った。 |
平家安楽寺へ参り、歌詠み連歌して、宮仕へ給ひしに、 住み馴れしふるき都の恋しさは神も昔に思ひしるらむ 人々さすがにあはれにおぼえて、皆袖をぞ濡らされける。
『平家物語』(巻第八) |
住みなれし ふるき都の 恋しさは 神も昔に 思ひしるらむ |
安楽寺天満宮留守別当大鳥居の宿坊で、宝暦4年(1754年)桃園天皇より院号を賜った。 慶応元年(1865年)から約3年間、朝廷を追われた三条実美ら尊皇攘夷派の五卿がこの延壽王院に滞在し、その間、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬ら大勢の勤皇の志士が去来して明治維新の策源地となった。 |
儒門出大器抜擢躋台司感激恩遇 厚不顧身安危一朝罹讒構呑冤謫 西涯傷時仰蒼碧愛君向日葵祠 堂遍天下純忠百世師
昭和二十九歳 蘇峰菅原正敬頽九十二 |
儒門大器出で抜擢され台司に躋(のぼ)る。 恩遇の厚しに感激し身の安危を顧みず。 一朝、讒構(ざんこう)に罹り冤(ぬれぎね)を呑んで西涯に謫せらる。 時に傷んで君の愛す向日葵の蒼碧(そうへき)を仰ぐ、 祠堂天下遍く純忠百世の師。 |
徳冨猪一郎(蘇峰)は熊本県に生まれ、27歳で「国民新聞」を刊行した思想家であり歴史家である。菅家の子孫といい、菅原正敬と署名している。この詩は道真公のご生涯とその精神を讃えたもので、92歳の書である。文豪の徳冨蘆花は実弟。 |
凡神國一世無窮之玄妙者不可敢 而窺知雖學漢土三代周孔之聖經 革命之國風深可加思慮也 凡國学所要雖欲論渉古今究天人 其自非和魂漢才不能□其□奥矣 |
漢学に精通しつつも、日本精神を失わないようにこの四文字が菅公の学識と教学を適切にいい現した言葉で、明治維新の後、これを替えて和魂洋才という言葉も生まれた。 この碑は、安政5年(1856年)菅原為定の書で、西高辻信金を中心に、平田鉄胤ほか多くの学者や志士によって建碑された。 |
凡そ神国一世無窮の玄妙は敢て窺ひ知るべからず。 漢土三代周孔の聖経を学ぶと雖も、革命の国風深く思慮を加ふべきなり。 凡そ国学の要とする所は論古今に渉り天を究めんと欲すと雖も、人其の和魂漢才に非ざるよりは、其閾奧を闘ること能はず。 |
天正19年(1591年)、小早川隆景は本殿再建。 慶長3年(1598年)6月27日、石田三成は太宰府を訪れ、天満宮の再興を指示。 |
天神の社は隆景と申せし人の再興也、されどもあたりあたりはみなあれしまゝ也、三成此頃大鳥居の住僧信寛に命じて、安樂寺、東法花堂、西法花堂、廻廊、僧坊ども、經藏、鐘樓などたてらるべき事、但(マゝ)おこなはる、廿一の末社の事は、いふにたらず、塔の修理、橋の欄樫、しそへらるべき事、池のみくさもかれはらひ、流せきいるべき所々をも、今ぞ定をき給へる、此おりふし、信寛所望、 宮柱ならはゞ猶や夏木立、 |
魁けて 雪の飛梅初明り |
ひと時の茜といえと 雲を焼く 大きな自然や 限りなき空や |
興亡を語れ 礎石のきりぎりす |
御奉仕の日日 心をも身をも つくして 仕えなむ まことの道を ただ一筋に |
生命(いのち)の滾(たぎ)り 樟の木の光の中で私は佇んでいた 深く淡い光の中で この樟の木は 深く長い命を燃焼させている 幾千年のこの樟の木は 多くの歴史をつぶやきながら みずからの歴史の痛みや苦しみを 歴史の他表にこたえていた 九州の太宰府の樟の木に 人は佇んでいた それでも耐えてこの天神の森に生きる 大きな夢の中で 樟はアジアの木である |
飛梅の 香をなつかしみ 立ち寄りて むかししのへは 花のさゆらく |
神の塵みな 美しき初箒 |
よろつよにとしはきふともうめのはな たゆることなくささわたるへし |
神亀5年(728年)頃、大伴旅人は大宰帥として妻・大伴郎女を伴い大宰府に赴任する。 |
天平2年(730年)正月13日、大宰帥旅人邸において官人・文人が集って梅の花の宴が催された。この歌は、その際に詠まれた32首のうちの1首である。 |
「令和」の元号は、「梅花歌三十二首」の序文の中の「時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。」の「令」と「和」の二文字を採り組み合わせて創られた。 |
福岡藩主黒田長政の父孝高(如水は法号)は、天満宮を深く崇敬して、此処に草庵を建て、2年間隠棲の際使用した井戸です。 |