2023年福 井

左内公園〜橋本左内先生像〜
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福井市左内町に左内公園がある。

橋本左内

 橋本左内は、幕末の福井藩士です。

 16歳のときに大坂に行き蘭学や西洋医学を学ぶなど、若い頃から熱心に勉強しました。

 左内は、24歳の若さで藩校「明道館」の学監同様心得に就任し、欧米の優れた学問を学ばせようとしましたが、「むやみにまねるのではなく、日本古来の道徳など精神的な学問を助けるものとして学ばなければならない」と洋学を学ぶ時の注意も忘れませんでした。

 将軍の継嗣問題が起きると、福井藩主松平春嶽の命令を受けて一橋慶喜を将軍にしようと江戸や京都で活躍しました。しかし、徳川慶福(よしとみ)を将軍にしようとした井伊直弼が大老になると、左内は捕らえられ安政6年(1859年)26歳の若さで処刑されました。左内は、15歳のときに「啓発録」を書きました。これは、学問を志した左内が、これからどのように生きていくか」という心構えを綴ったものです。

橋本左内の墓


西郷隆盛を心服せしめた幕末福井藩の鬼才景岳橋本左内の墓である。

安政の大獄に座し、小塚原の露と消えるや、友人長谷部弘連等によって一応同所回向院に埋葬されたが、間もなく文久3年当所に移葬された。当所は都市計画実施までは、日蓮宗善慶寺の境域に属し、同寺が、橋本家の菩提寺であった関係から、当左内墓に列んで初代長徳、父長綱、母梅尾の墓などが建てられてある。

啓発録


一稚心を去る
一気を振う
一志を立てる
一学に勉める
一交友を択ぶ

平成8年(1996年)10月7日、足羽公民館建立。

 「啓発録」は嘉永元年(1848年)この地に眠る郷土の偉人橋本左内先生が、15歳の時に自分の生活を反省して、自分自身を激励し、言い聞かせる意味で述べたものです。

 5つの項目は、どれもその考えの深さや鋭さ、心の立派さに感嘆するばかりです。

 この偉大な先人の残した言葉は足羽に住む人々の生活の教訓となり、人生の指針になるものと確信します。

橋本左内先生像


昭和38年(1963年)10月7日、建立。

数え年15歳で啓発録を書き、早くから俊秀のほまれ高かった橋本左内先生長ずるに及び時の藩主松平春岳公に重用され、幕末の国内蒼然たる中によく時世を達観して開国尊皇の大義をかかげ日夜国事に奔走した。不幸26歳の若さで刑死したが、その卓越した見識と烈々たる憂国の至情はよく回天の大業成就の因をなし、今もなお郷土の人心を振起するところきわめて大きい。ここに先生を敬仰する多くの人人の誠をあつめてこの像を建設し、ながくその遺烈を天下に顕彰するゆえんである。

右側から


芭蕉宿泊地洞哉宅跡

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