2022年大 阪

適 塾〜緒方洪庵〜
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大阪メトロ御堂筋線「淀屋橋駅」下車。

大阪市中央区北浜に「史蹟緒方洪庵舊宅及塾」があった。


弘化3年(1846年)、大村益次郎は大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。

嘉永2年(1849年)、橋本左内は大坂に遊学。緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ。

重要文化財空襲で焼けなかったのは驚きである。

史 跡 緒方洪庵旧宅及び塾


 この建物は、幕末の医師・蘭学者であった緒方洪庵が弘化2年(1845年)に買い受けて、天保9年(1838年)に大坂瓦町に開いた私塾、適塾(適々斎塾)を移転した場所である。洪庵は、文久2年(1862年)に幕府の奥医師として江戸へ迎えられるまでの約17年間にわたり、ここに居住した。

 洪庵は、ここで諸国から集った門人たちに蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人物を育てた。

 敷地は間口約12メートル、奥行約39メートルあり、主たる建物は主に教室に使われた表屋(前方部)と、洪庵の家族の居室にあてられた主屋(後方部)からなり、南庭に土蔵と納屋がある。表屋は寛政4年(1792年)の北浜大火後まもなくの建築と考えられ、もとは町筋に面する商家の形であったが、洪庵入居の際に若干の改造が行われたとみられる。

 表屋は2階建ての1階を教室、2階を塾生部屋とし、主屋は一部2階建てで西側に通り庭を持ち、台所・書斎のほか4室がある。台所の2階にはツーフ部屋と女中部屋がある。

 洪庵が出府してのち、再三の改造があり、大正4年(1915年)には前面道路の拡幅によって約1.2メートルの軒切りが行われた。昭和51年(1976年)から55年にかけて行われた解体修復で、軒切り部分を除いて、概ね洪住当時の姿に復原した。平成25年(2013年)から同26年には、文化財的価値に配慮した耐震改修工事を実施した。

 この住宅は、蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、近世における大坂北浜の町家建築の姿を示す貴重な遺例である。

 この建物は昭和17年(1942年)、国に寄附されることとなり、洪庵の子息や適塾関係者らによって明治初期に設立された大阪仮病院や大阪医学校を源流とする大阪帝国大学 (当時)へ移管された。現在はこれを大阪大学が所有し、一般公開している。建物内部では、適塾および洪庵の事蹟を伝える資料展示を行っている。

中 庭


日本生命今橋ビル公開空地


緒方洪庵先生像


 平成9年(1997年)2月19日、大阪北浜船場ライオンズクラブがチャーターナイト35周年記念事業で寄贈。川合敏久制作。

内北浜通

かつては北の濱といわれ、北に向いて家屋の建つ広い浜でした。水運による交流が盛んになるにつれ、家屋が建ち並び、ここに二つの通り(内北浜通と北浜通)が出来ました。さらに長崎貿易や各藩の諸物産の集散地として、金相場会所、俵物会所、銅座などとともに各種問屋、両替屋などが立地し、経済・金融取引のまちへと発展しました。

福沢諭吉と適塾

天保5年(1835年)大坂・堂島の中津藩屋敷で生まれた福沢諭吉は、安政2年(1855年)適塾に学び青春時代を過ごしました。安政5年(1858年)江戸に出て蘭学塾を開き、慶應4年(1868年)慶應義塾を開設します。そして明治6年(1873年)最初の分校が大阪に開校されました。大阪慶應義塾の碑が北浜2丁目に残されています。

緒方洪庵と除痘館

医師・緒方洪庵はコレラの治療、天然痘の予防などに大きな貢献をしています。嘉永2年(1849年)多くの医師とともに、当時多数の死亡者を出していた天然痘の予防のため、除痘館を古手町(現・道修町4丁目)に開設し、種痘を行いました。万延元年(1860年)今橋3丁目に移し、各地に種痘ワクチンを送るなど普及活動に尽力しました。

大阪市中央公会堂

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