永山武四郎は鹿児島県の人。明治5年開拓使出仕となり、同7年屯田兵の設置されるや、専心その育成にあたり、のち屯田兵制の整備とともにその司令官に任ぜられ、北海道庁長官を兼ねた。武四郎は、北海道を墳墓の地と定め、心血をそそいで北門の警備と開拓にあたり、とくに上川地方の重要性に着眼し、開発の基礎を築いた。同29年、第七師団の設置とともに、初代師団長に就任、よくその大任を果たした。その勲業まことに偉大である。 ここに北海道百年を迎えるにあたり、その偉業を回顧し、功績を永く後代に伝えるため、この像を建立する。 |
歴史は沈黙して語らない。寒さと飢えを語らない。森の声も海の藻草の声も。まして吹雪の闇に吸われた人や地底の人々の声は。 だが、私達のある者はその森の声を聞き、ある者は父母の昔話りにその海の声を聞くことができた。きき知っているならば、それは語りつがねばならぬ。 風雪の群像は、原始の大地に名もなく消えた一世紀北海道開拓者の涙と呻きと歓喜の像である。 |
昭和45年(1970年)8月、建立。本郷新制作。 |
|||||||||||||||||||||
昭和47年(1972年)10月、過激集団に爆破された。 |
|||||||||||||||||||||
昭和52年(1977年)、復元。 |
耐えに耐える |
|||||
頑固に立直り |
|||||
不屈な力に支えられて |
|||||
百年の冬と夏、春とそして秋がくり返され |
|||||
ついに広いの空の下に |
|||||
大地はその全貌を見せた |
|||||
今花よりあざやかに |
|||||
大地を彩る家々と耕地 |
|||||
そして若く巨大で |
|||||
明るい国土を創造する貌々 |
|||||
道はすべてこの基石にはじまりここに集まる |
|||||
今こそ大望を抱け |
|||||
母なる北の大地よ |
|||||
更科源蔵作「基石」の一節より |
昭和13年(1938年)11月12日、除幕式。本山白雲制作。 昭和18年(1943年)7月10日、金属供出。 昭和26年(1951年)10月5日、除幕式。コンクリート製。 平成3年(1991年)、ブロンズで田村史郎制作。佐藤忠良監修。 |
高知県宿毛市に生まれ、戊辰の役に参加し、奥羽を転戦する。明治2年(1869年)北海道開拓使の判官となり、函館、札幌を担当、西南の役のさいは鹿児島県令、その後、会計検査院長・司法大輔を歴任する。 明治18年(1885年)、上川地方を視察し、近文山から国見を行い、政府に上川開拓の意見書を提出する。翌1886年に、北海道庁が置かれ、その初代長官に就任し、上川道路開さくに着手し、農作試験場の設置、上川原野の殖民地選定事業を実施など、旭川の基礎をつくるために大きく貢献した。 明治21年(1888年)、元老院議官として転出し、農商務大臣をつとめ、その後、宮中顧問官、貴族院議員、御料局長もつとめている。大正5年(1915年)、東京で没している。 |
世の中に 涼しきものは 上川の |
雪の上に照る 夏の世の月 通俊 |
岩村通俊卿遺墨摸寫 |