開拓使札幌本庁本庁舎跡および |
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旧北海道庁本庁舎北側 |
開拓使は、いわゆる蝦夷地経営のため、明治2年(1869年)7月、政府の機関として民部省内におかれ、明治5年(1872年)9月には現在の北海道(明治2年8月15日に蝦夷地を北海道と改称)全体を治めることとなった。 開拓使はいろいろ移り変わったが、明治5年(1872年)9月、開拓使札幌本庁ができ、現在の西4丁目通りから西8丁目通りまでと北1条通りから国鉄函館本線(北6条通り)までを敷地とし、明治6年(1873年)10月29日、その本庁舎ができた。 開拓使札幌本庁本庁舎は、木造2階建、1階平面約550平方メートルの建物で、屋上八角形展望層のうえには北辰旗がひるがえっていたが、明治12年(1879年)1月17日の火災で焼けた。 開拓使は、明治15年(1882年)2月8日に廃止され、3県1局時代をへて、明治19年(1886年)1月26日、北海道庁が設けられた。 北海道庁本庁舎は、明治21年(1888年)12月14日にできたが、この建物は、れんが造り半地下1階、地上2階建で、屋上には直径7.27メートルの八角塔を設け、1階平面約1,053平方メートル、延べ約4,892平方メートルだったが、明治42年(1909年)1月11日の火災のため内部と屋根が消失した。 しかし、外壁はそのまま残り、明治44年(1911年)11月15日、もとの姿に近い形で修復工事を終え、「赤れんが」の名で親しまれてきたが、昭和43年(1968年)、北海道百年を記念してもとの姿に復元された。 開拓使札幌本庁本庁舎の建物跡地と旧北海道庁本庁舎の建物のあるこの場所は、道民とともに、北海道風雪百年の歴史をになってきたところである。 われわれは、この歴史の遺産をふまえ、北海道の明かるい未来を築こう。
文部省 北海道 |
開拓使の初代長官は佐賀藩主鍋島直正が就任、彼は実務にとりかかる前に辞任した。東久世通禧が後を引き継ぎ、明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。 |
この庁舎の建築様式は、アメリカ風ネオ・バロック様式といわれ、設計は当時の北海道庁土木課が行なったものである。 明治19年(1886年)7月15日新築の工をおこし、同21年(1888年)で建築されたが、明治42年(1909年)1月11日の火災による大改修その他数度の修補により、原形をやや損じていた。 昭和43年(1968年)北海道百年を記念して、この庁舎を保存することとなり、その復元改修工事が施された。復元に当たっては、中央八角塔をはじめ屋根窓、換気塔、煙突、および両側玄関などの外形を復し、かつ正面玄関上の屋根寄棟をマンサード屋根に、亜鉛鉄板葺をスレート葺に、屋根各棟上に金属製棟飾りを復した。また建物の内部には、防災および構造補強のため一部の改造を施した。 この建物は簡素ながら、その意匠もすぐれており、明治時代における赤れんがの官庁建築として、その価値はきわめて高く、かつ北海道開拓の歴史的意義をもあわせ伝えるものとして貴重な遺構である。
文部省 北海道 |
明治19年(1886年)、北海道庁が設置。岩村通俊が初代長官に任命される。 明治21年(1888年)6月、永山武四郎が北海道庁長官を兼ねる。 |