山口市指定文化財 |
この地は、大村益次郎の祖先が代々居住したところである。益次郎はこの地で文政8年(1825年)5月に出生した。しかし、益次郎の出生後3年ばかりして、一家は父の実家のある秋穂の天田(あまだ)に移り、生家は焼き払われた。 益次郎は成長して、三田尻の梅田幽斎に蘭学、九州日田の広瀬淡窓に漢学、さらに大阪の緒方洪庵について、洋学・医学を学んだ。嘉永6年(1853年)宇和島藩にまねかれて、宇和島に数年とどまり、後に江戸に出て塾を開き、ついで幕府の講武所の教授となった。 その後長州藩に召されて江戸藩邸に入り、後に帰国して明倫館教授となった。 この頃、いわゆる幕府による長州征伐がおこり、益次郎は参謀としてよくこれに対処し、幕府軍をやぶった。 その後、戊辰の戦いにも参謀として功があり、明治新政府の樹立に尽くした。 維新後は兵部大輔として、大いに軍政を改革し、日本の国は日本国民全部で守るべきだとして、大いに国軍の建設に尽力したが、明治2年9月4日京都において、反対派のために襲撃をうけ、11月5日大坂で没した。 東京の靖国神社の社頭にある益次郎の銅像は、益次郎のありし日の英姿である。 |
明治維新の英傑大村益次郎は、文政8年(1825年)周防国吉敷郡鋳銭司村(現在の山口市鋳銭司)の医者の家に生まれ、大分県日田の威宜園、大阪の適塾で医学・洋学・兵学などを修めました。その後長州藩に出仕。四境戦争や戊辰戦争を勝利に導き、明治政府の礎を築きましたが、明治2年(1869年)不平士族に襲われ大阪で死去しました。45歳でした。 大村益次郎は学識と経験を活かし江戸で鳩居堂塾を山口で普門寺塾を開き、有為な人材を育てました。 私たちは教育者としての大村益次郎の功績を讃え後世に伝えるため、若者を教え導く彼の姿を銅像にして語り継ぐことを決意しました。 鋳銭司が生き生きとした場所であり続け、未来に挑戦する若者が育っていくことを願っています。 |