2022年愛 媛

大村益次郎の住居跡〜神田川原戸板口〜
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宇和島市神田川原に「大村益次郎の住居跡」があった。


市指定 史跡 大村益次郎の住居跡

わが国近代兵制の創始者として有名な大村益次郎は文政7年(1824年)3月10日、周防国(山口県)に生まれた。若い頃は村田亮庵といい、大阪の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、門下の逸材といわれた。のち郷里で開業医をしていたが、嘉永6年(1853年)八代藩主伊達宗城の招きによって来藩し、名を蔵六と改め、宇和島藩士として蘭学の教授、兵書、翻訳に従事し、また藩の軍制、特に軍艦の研究等にも力を尽くした。益次郎は安政3年(1856年)藩主に従って江戸に行ったので、宇和島在住は約2年半に過ぎなかったが、その間に住んでいたのがここ神田川原戸板口であった。

宇和島市教育委員会

佐賀藩兵上野彰義隊砲撃図


大村益次郎が作戦を立て、近代的な兵器を用いることにより、わずか一日で勝負がつき江戸市中は戦火から免れた。

佐賀藩で作られたアームストロング砲


 村田蔵六は文政8年(1825年)周防国鋳銭司村(現山口市)の村医の家に生まれた。蘭医学塾であった大坂の「適塾」に入り、緒方洪庵に師事。門下の逸材といわれ、塾頭もつとめたが、帰郷して村医を継いだ蔵六は無愛想で、患者は来なかった。

 嘉永6年(1853年)、蔵六は宇和島藩に召し抱えられ、蘭学の教授のほか兵書などの翻訳に従事し、洋式軍艦の雛形製造にもあたった。また、二宮敬作に頼まれ、シーボルトの娘のイネも指導した。

 安政3年(1856年)、藩主に随行して江戸に出た蔵六は、蘭学塾「鳩居堂」を開いて蘭学や兵学、医学を教え、幕府の蕃書調所(洋学研究機関)でも講義をした。やがて蔵六は長州藩に召し抱えられ、軍事体制の整備といった重要な藩政改革をすることとなった。藩命により大村益次郎と改名。倒幕の戦いが始まり、江戸城明け渡し後、不穏な動きをする旧幕府残党による彰義隊をわずか一日で討伐した。

 明治2年(1869年)、大村は出張先の京都で不平士族に襲撃され、重傷を負った。蘭医ボードウィンの手術を受け、イネの看護を受けたが、敗血症により死亡。幕末の風雲のなか、官軍参謀として彗星のように現れた大村益次郎は、科学的思考をする天才的な戦術家だった。

大隆寺へ。

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