2022年山 口

野村望東尼の墓碑〜望東尼終焉之地〜
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防府市桑山1丁目に野村望東尼の墓碑があるというので、探してみた。

分かりづらかったが、何とかみつけた。

正五位野村望東尼之墓


野村望東尼の墓

 この墓碑は、望東尼の追贈を受け楫取素彦が中心となって、昭憲皇太后の御下賜金や三条公、毛利公などのご協力の下、明治26年に重修されたものです。墓碑の裏は、楫取素彦が撰文し、本多国敬が敬書しています。

 銘は、『詩経』の四言句になぞらえた格調高い重荘な韻文となっており、意味は概ね次のとおりです。

「山荘は平尾の山々の連なりにあり、望東尼が町の喧騒を絶って住まわれる深く刻んだ勤王の心は志士と等しく、姫島に幽閉されるも落ち着き払い、獄にあるも家にあるも、いかなる境地にあってもかわることがない。朝廷が叙勲し、天が報いたが、実に天の節理が回復して世俗の権力を抑えることとなり、世の推移には正義がある。私も望東尼の生涯に照らして何をすべきかを悟るのであった。」

楫取素彦、65歳のときの漢詩です。

墓碑の裏


県指定史跡

 野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓

 野村望東尼は文化3年(1806年)9月6日、福岡藩士浦野重右衛門勝幸の三女として生まれ、その名を「もと」と称した。
 24歳で野村新三郎貞貫の後妻となり、夫婦ともに和歌を嗜んだが、夫をなくし、54歳で出家し招月望東禅尼となった。

 望東尼は、勤王の志士との交流を深め、自身の庵「平尾山荘」(福岡市中央区平尾)に匿うとともに、密会の場として提供した。中でも高杉晋作は、元治元年(1864年)12月、「長州藩」の情勢が急変したため、死を覚悟して「功山寺」で挙兵し、「大田絵堂」で保守派に勝利し、「藩論」を一変させ、処刑寸前の楫取素彦(後、倒幕軍参謀)らを救ったことで、結果的に維新に影響を与えた。

 慶応元年(1865年)2月、望東尼は姫島(糸島市志摩姫島)に流刑となり、10ヶ月幽閉されたが、高杉の指示により救出され、馬関(下関市)に身を寄せた。既に病床にあった高杉を看病して」いた時に、
  高杉が「おもしろきこともなき世に(を)おもしろく」と詠むと、
  望東尼が「すみなすものは心なりけり」と続けて詠んだことは有名である。

 慶応3年(1867年)4月、望東尼は高杉の死後、山口に移り、更に同年9月、薩長連合の討幕軍が東上すると聞き、天神信仰の篤かった望東尼は、戦勝祈願のため三田尻(防府市)に入り、歌友荒瀬百合子宅に身を寄せ、9月25日から7日間、防府天満宮に参籠し、1日1首の和歌を奉納した。
 望東尼は、三田尻に留まり薩摩船の到着は見届けたものの、東上を待つうちに病に倒れ、荒瀬宅において介護を受けたが、同年11月6日、62歳で没した。
 墓は、明治24年(1891年)の望東尼の正五位贈位に際して昭憲皇太后、毛利公、三条公等から資金援助を受け、明治26年(1893年)楫取素彦によって改修された。

 望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家旧宅を「終焉の宅」の宅として、桑山墓地の「墓」と共に県の史跡に指定されている。

防府市教育委員会

福岡市の明光寺に野村望東尼の墓がある。

防府市三田尻本町に望東尼終焉之地があった。


望東尼終焉之地


毛利元敬書

毛利元敬(もとあき)は、毛利家宗家31代目当主。

令和2年(2020年)5月15日、没。

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