2022年福 岡

明光寺〜野村望東尼の墓〜
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福岡市博多区吉塚に明光寺という寺がある。

大宝山明光寺


山 門


本 堂


曹洞宗の寺である。

野村望東尼の墓があった。


勤皇歌人 野村望東尼

〇出生〜結婚

野村望東尼(=俗名モト)は、文化3年(1806年)9月6日、黒田藩士浦野勝幸の三女として、福岡の御厩後(おんやまのうしろ)(現在の六本松3丁目附近)で生まれました。福岡県護国神社近く、赤坂三丁目と六本松三丁目の境界線にあたる位置には、野村望東尼誕生之地碑があります。

 彼女は、13才のころ行儀見習いとして家老の林家に入り、17才のときに結婚したが、半年余りで離婚し、24才のとき、野村貞貫(さだつら)と巡り会い、再婚しました。

 望東尾と貞貫はともに歌が好きでした。望東尼が27才のときに、幕末の三大歌人の一人として知られている福岡出身の大隈言道(ことみち)に入門し、和歌を学び始めました。望東尼40才のとき、貞貫の花鳥風月を友に自適の生活を送りたいという希望により、家督を長男に譲り、当時の平尾村の向の岡に山荘を作り、隠居したそうです。今も残る平尾山荘は、そのゆかりの地になります。

〇山荘時代

 山荘での夫婦の生活は、おおむね平穏だったようです。夫妻は自らの手で、庭に桜、梅、楓などを植え、池を掘った庵には言道やその門人たちがしばしば訪れ、風流な歌会が催されていたといわれています。山荘時代の生活は、望東尼の代表的な歌集のひとつ「向陵集」からもたどることができます。この歌集は、望東尼が27才の(言道に入門した)時から60才までに詠んだ歌が集められています。歌数は1800首余り。その中には、花鳥風月を友にした風雅はもとより、夫婦間のこと、家族の関係などが詳しく、しかも巧みに詠み描かれています。

 しかしそんな平穏な生活は長くは続かず、夫良貫の死によって終止符を打つことになります。望東尼が54才のときでした。このころ、望東尼も病床にあり、次の歌を詠んでいます。

 「もろともに ながきやまひに ふせるまは われもやさきと おもひしものを」

 (あなたと一緒に長い間、病に伏せていたときは、私のほうが先に死ぬのだろうと思っていたのに、あなたが先に旅立ってしまうなんて)

○勤王の道へ

 貞貫亡き後、望東尼の生活は大きく変化していきました。貞貫の初七日が済むと、博多の明光寺で得度剃髪し、「招月望東禅尼」という法名を授かりました。

 1861年には、宿願だった上京を果たします。上京によって、望東尼は愛国精神の自覚を強めました。貞貫と死別するまでは、女流歌人としての生活でしたが、京都の地を踏み、御所を拝観し、京都に集う諸国の志士との交流を深めました。多感な望東尼は、世の中の情勢に敏感に反応し、志士たちの影響を深く受けました。

 福岡に帰った望東尼の元には京都の情勢を聞こうと、平野國臣をはじめ、筑前の勤王の志士たちが来訪するようになりました。このころから、平尾山荘は幕末の志士たちの隠れ家となりました。長州の高杉晋作も一時難を逃れて、山荘に潜伏していたそうです。

〇姫島に流罪

 1865年、福岡藩は勤王派を一気に弾圧して処刑しました。60才だった望東尼も玄界灘に浮かぶ志摩町の小島・姫島へ流刑となりました。板壁も土壁もなく、松の角材で荒格子が組まれているだけの粗末な牢で過酷な日々を過ごしたようです。そんな望東尼の身の上を知った高杉晋作は、かつての恩義に報いるため、姫島に救出の手配をし、望東尼を脱獄させました。

〇望東尼の最期

 その後、望東尼は下関で晋作と再会しますが、皮肉にも晋作の体は病魔に侵されており、翌年、望東尼は晋作の死を看取ることになりました。晋作が死の床で筆をとり、

「面白き 事もなき世も おもしろく」(面白いことのない世の中を面白くするにはどうしたらいいのだろうか)

と詠むと、望東尼が、

「住みなすものは 心なりけり」(四囲の状況がどうあるかということではなく自分がどう思うかである、それは心のおきどころ次第である)

と続け、それを見た晋作が「おもしろいのう」と笑って最期を飾ったと言われています。晋作亡き後、1867年、体調を崩した望東尼も、62年の生涯に幕を閉じました。

 幕末の時代を女流歌人として、また、夫亡き後は、勤王の道を歩んだ望東尼。

 「ひとすじの 道を守らば たおやめも ますらおのこに おとりやはする」(一途に信念を貫けば女性も男性に劣りはしない)

 この歌は、若い女性に贈る歌として「向陵集」の中で詠まれています。

防府市桑山1丁目に野村望東尼の墓碑がある。