2005年栃 木

史跡探勝路〜憾満ヶ淵〜
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日光の史跡探勝路を歩き、憾満ヶ淵(かんまんがふち)へ。


憾満ヶ淵(かんまんがふち)日光市指定名勝である。


日光市指定名勝、対岸は日光植物園

憾満ヶ淵(含満ヶ淵)

 川の流れが不動明王が真言を唱えるように響くので、晃海大僧正が真言の最後の句「カンマン」を取り憾満ヶ淵と名付けたという。

 晃海はこの地に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像を建立したもので、往時は参詣や行楽の人々で賑わった。元禄2年(1689年)芭蕉も奥の細道行脚の途中で立ち寄っている。

 「含満」とも書くので「がんまん」と濁って読まれることが多いが、命名の由来から考えると、「かんまん」と澄んで読むのが正しい。

 元禄2年(1689年)4月2日(新暦5月20日)、芭蕉は裏見の滝の後、この憾満ヶ淵を正午頃迄見物した。

 天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡、漸ク及午。

『曽良随行日記』

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は憾満ヶ淵を訪れている。

 ガンマンノ淵・慈雲寺淵、岩上ニ石不動立。


 享保元年(1716年)4月16日、稲津祇空は奥羽行脚の途上早見晋我・常盤潭北と憾満ヶ淵を訪れている。

かんまんか淵にいたる、澗水奔流してくたり、展転大石にふれていかり、又平石をえて霤そゝく事数十丈、つゐに悍然としてかえり見す。百あまりの石仏たてのたくみか手を尽しぬ。帰りはいき石をこえて大杉鬢櫛なけ黒髪山を見、釘抜念仏堂、七滝の一すしにそれともきかず、その日は宿へかへる。


 元文3年(1738年)4月17日、田中千梅は松島行脚の途上、憾満ヶ淵を訪れている。

かんまんか渕ハ空海大師かんまんぼろをんの梵字を刻ミて護摩を修し所也とそ


 寛保元年(1741年)4月17日、白兎園宗瑞は従兄岑水と日光東照宮に参拝の後、憾満ヶ淵を訪れた。

案内の僧をともなひ先沢にくたれは山水けはしくうつまける岸のむかひの巖に弘法の筆擲たまひしとて憾マン(※「牟」+「含」)の梵字かすかに見えてこなたの岩に護摩の石床とて残り侍る

護摩の坐やいはほ涼しく水煙
   岑水


 明和6年(1769年)4月、蝶羅は憾満ヶ淵を訪れ句を詠んでいる。

   がんまんが渕

ありありと梵字のかげやなめくじり
   蝶羅


 明治19年(1886年)7月、正岡子規は旧伊予藩主久松氏の子息定靖に随伴して日光へ行き、憾満ヶ淵を訪れている。

      含滿淵の不動尊を拜みて

すさましくなりてうづまく水にだもゆるがぬ岩にたてる御佛


慈雲寺と並び地蔵


あまり1人では歩きたくない所である。

慈雲寺

 承応(じょうおう)3年(1654年)に晃海大僧正が創建し、阿弥陀如来と師の慈眼大師天海の像を祀った。

 当時の建物は明治35年(1902年)9月の洪水で流失した、現在の本堂は昭和48年(1973年)に復元された。

明治35年(1902年)9月の大洪水で大日堂も流失してしまった。

並び地蔵(化け地蔵)

 慈眼(じげん)大師天海の弟子約100名が「過去万霊、自己菩提」のために寄進したもので、列座の奥には親地蔵が置かれていた。

 明治35年(1902年)の大洪水で、親地蔵と他のいくつかが流された。また、参詣者がこの地蔵の数を数えてみると、そのつど数が違うというところから、化け地蔵とも呼ばれるようになった。

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