廿六日、藁科川とかや渡りて、興津の浜に打出づ。「なくなく出し跡の月影」など、先づ思ひ出でらる。昼立ち入たる所に、あやしき黄楊の小枕あり。いと苦しければ、打臥したるに、硯も見ゆれば、枕の障子に、臥ながら書きつく。
なを(ほ)ざりのみるめばかりをかり枕結びおきつと人に語るな
暮れかゝるほど清見が關を過ぐ。岩こす浪の、白ききぬをうちきつるやうに見ゆるいとをかし。
きよみがた年ふる岩にこととはむ浪のぬれぎぬいくかさねきつ
ほどなく暮れて、そのわたりの海(浦)近き里にとゞまりぬ。浦人のしわざにや、となりよりくゆりかゝる煙、いとむつかしきにほひなれば、「よるのやどなまぐさし」といひける人の詞も思ひ出でらる。よもすがら風いとあれて、浪たゞ枕のうへに立ちさわぐ。
ならはずよよそにきゝこし清見潟あらいそ浪のかゝるねざめは
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富安風生の句碑があった。

無為といふこと千金や春の宵
昭和40年(1965年)3月14日、日本軽金属興津寮に建立。
日軽長月会、ォの庭にわが句碑を立つ
句碑のためわづかに高し春の芝
幸福に芝生ふくらみ風光る
『傘寿以後』 |
全国で23番目の風生句碑である。
昭和46年(1971年)5月、現在地に移転。
元禄5年(1692年)5月20日、貝原益軒は江尻から興津に至る。
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廿日。江尻を出て興津に至る。かねて甲斐の国にゆかんとおもふ志ありしかば、まづ興津川をのぼりゆく。
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享和元年(1801年)3月1日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で清見潟を眺めながら江尻宿に行く。
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寺をいでゝ吟行すれば、夕日なゝめなるに、石の間を流るゝ細き川あり。はたうち川といふ。これ庵崎のすみだ川にや。十六夜の日記に、岩こす波の白き絹をうちきするやうにみゆるといひて、清見潟のながめは心にしみて、かたしく袖の露に月もやどさまほしき夕ぐれなり。庵原川をわたりて江尻の宿につきぬ。府中屋茂兵衛が家をあるじとす。
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文化2年(1805年)11月14日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で興津に至る。
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日みぢかければことはりいひて輿を飛し、府中國吉田(コヨシダ)江尻をこえて、興津にいたり、清見寺にいりて、おきつ川をわたる比日くれぬ。
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嘉永4年(1851年)4月4日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、江尻から興津に至る。
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一、四日 翳。卯後、江尻を發し、興津に抵る。江尻・興津の間に清見寺領あり。自餘は皆寺西直次郎の代官所なり。
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