下 町中央区
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日本橋魚河岸跡〜久保田万太郎〜

東京メトロ東西線「銀座」駅下車。

日本橋へ。


獅子像


日本橋の麒麟像


麒麟像


渡辺長男製作。渡辺長男は朝倉文夫の兄。

船町・小田原町・安針町等の間悉く鮮魚の肆(いちぐら)なり。遠近の浦々より海陸のけぢめもなく、鱗魚をこゝに運送して、日夜に市を立てて甚だ賑へり。

    鎌倉を生きて出でけんはつがつを   芭蕉

    帆をかぶる鯛のさわぎや薫る風    其角


日本橋北詰東側に日本橋魚河岸跡がある。


日本橋魚市場発祥の地


日本橋魚河岸跡

 日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町1丁目・本町1丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。

 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、1日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。

 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。

 この魚河岸は、大正12年(1923年)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。

 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年(1654年)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの300余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

中央区教育委員会

日本橋から見た震災前の魚河岸(左端)と日本橋川の様子、奥は江戸橋


碑 文


本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆なり遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝに運送して日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所圖繪にのこれる日本橋の魚市魚河岸のありしはこのあたりなり舊記によればその濫觴は遠く天正年間徳川家康の関東入國と共に攝津國西成郡佃大和田兩村の漁夫三十餘名江戸にうつり住み幕府の膳所に供するの目的にて漁業を営みしに出づその後慶長のころほひ幕府に納めし殘餘の品を以てこれを一般に販賣するにいたり漁るもの商ふものゝ別おのづからこゝに生じ市場の形態漸く整ふさらに天和貞享とすゝみて諸国各産地との取引ひろくひらけ從つてその入荷量の膨脹驚くべきものありかくしてやがて明治維新の変革に堪へ大正十二年関東大震災の後をうけて京橋築地に移轉せざるの止むなきにいたるまでその間じつに三百餘年魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神發祥の地としてよく全国的の羨望信頼を克ちえつゝ目もあやなる繁榮をほしいまゝにするをえたりすなはちこゝにこの碑を建てる所以のものわれらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらずひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化をながく記念せんとするに外ならざるなり

   東京に江戸のまことのしぐれかな

昭和二十九年三月

舊日本橋魚市場関係者一同に代りて
 日本芸術院会員 久保田万太郎
 日本芸術院会員 豊道 慶中 書

   日本橋の袂に舊魚河岸の記念碑建つ

東京に江戸のまことのしぐれかな

「春燈」

夢二港屋ゆかりの地へ。

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