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六義園〜岩崎家〜

文京区本駒込に六義園(HP)がある。

レンガを使用した外周塀


 江戸時代に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたレンガが使われている里由には、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。

 江戸時代当時の柳沢家の屋敷範囲と、明治年間以降の岩崎家の屋敷とは、文化財庭園として指定された現在の六義園の範囲よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れた、これらの土地では、日露戦争の祝勝会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館なども置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備する前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家所有当時の外周塀ではありません。しかしながら、柳澤家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変ってゆく中で、岩崎家が所有していた湯島や本所などの屋敷でも採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財といえます。

特別名勝六義園


 六義園は五代将軍・徳川綱吉の信任厚かった川越藩主・柳沢吉保が元禄15年(1702年)に築園した和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水」の大名庭園です。当園は池をめぐる園路を歩きながら移り変わる景色を楽しめる繊細で温和な日本庭園です。園内には和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝、中国古典の景観が八十八境として映し出されています。

 明治11年(1878年)に三菱の創始者である岩崎弥太郎の別邸になりました。昭和13年(1938年)に岩崎家より東京市(都)に寄付され、昭和28年(1953年)に国の特別名勝に指定された貴重な文化財です。

 六義園の名は、中国の詩の分類法(漢詩は風、賦、比、興、雅、頌)にならった古今集の序にある和歌の分類の六体(そえ歌・かぞえ歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌)に由来したものです。柳沢吉保の「六義園記」では、日本風に「むくさのその」と呼んでいましたが、現在は漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読む習わしから「りくぎえん」と読みます。

東京市石碑


 昭和13年(1938年)、六義園は当時の所有者であった三菱財閥三代目の岩崎久弥によって、東京市(現東京都)に寄附されました。この石碑は、その時の記念として東京市が建てたもので、六義園の成り立ちも記されています。

 岩崎家が六義園を所有したのは、明治維新によって政府に上地された六義園を明治11年(1878年)に三菱財閥創業者岩崎弥太郎が手に入れ、別邸にしたのが始まりです。その後、岩崎久弥の本邸・別邸となり、後に総理大臣に就任した政治家幣原喜重郎(岩崎弥太郎の女婿)が、一時仮住まいとしていたこともありました。

内庭大門


 右手の大きな門は「内庭大門」と呼ばれ、岩崎家所有当時の雰囲気を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。かつては門をくぐった先のしだれ桜付近に、岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸がありました。

六義園碑


若浦春曙・筑波陰霧・吟花夕照・東叡幽鐘

軒端山月・蘆辺水禽・紀川涼風・士峯晴雪

四代保光の復旧工事

 六義園の評判は作庭当時からが高かったようですが、和歌の世界に憧れ、また皇室を尊んでいた吉保は、さらに狩野派の絵師描かせた本園の絵図を霊元上皇に献上しました。完成して4年後の宝永3年(1706年)10月には、これに対して霊元上皇が六義園の景勝地「十二境八景」を選び、加えて廷臣たちに命じて和歌を詠ませた巻物が吉保に下賜されました。一幕臣の座敷の庭園に上皇を通じて和歌が贈られるのは極めて稀なことでした。

 これほど名園として名高かった六義園も、やはり六義園を愛した三代信鴻(のぶとき)が寛政4年(1790年)に亡くなって以降は、荒廃の一途をたどっていましたが、文化6年(1809年)、四代保光が約1年の月日と多大な費用を投じて復旧工事を行い、一部新たな景勝を加え甦ることになったのです。その経緯について「六義園八景」と併せてこの「新脩六義園碑」に記されています。

田鶴橋


妹山・背山


昭和13年(1938年)5月6日、高浜虚子は家庭俳句会で六義園へ。

分け行けば躑躅の花粉袖そでにあり

      五月六日 家庭俳句会。駒込、六義園。


 五月六日。家庭俳句会で駒込の岩崎邸へ行く。近く此
処は市に寄附して公園となるよしで、自然のまゝの庭園
の名残を味ふ為に、水竹居さんの御案内で見せて頂くこ
とになつたのであつた。随分風のひどい日だつたけれど、
他人のだれもゐないこの名園を私達は心ゆく迄あるきた
のしむことが出来た。広々とした池では、

  風波のしばらく鳰をかい抱き

 数寄屋風の一間に上つて互選披講した。

  障子かげ炭つぐ音のしてやみぬ


蓬莱島


昭和39年(1964年)6月30日、星野立子は夏草会で六義園へ。

 六月三十日 夏草会 六義園

苑訪ふやこたびも泰山木さかり

二枚の戸はづし即ち夏座敷


藤代峠

 六義園のモデルとなった紀州(和歌山県)和歌の浦の対岸には、有間皇子の悲劇で知られる「藤白坂」があります。その峠を登りきった名所「御所の芝」からは、和歌の浦全体を見渡すことができます。ここ「藤代峠」はこの藤白坂に見立てられていると考えられ、園内の中の島、紀川、和歌の浦を見渡すことができるポイントとなっています。

藤代峠から見下ろす。


   名所百首歌たてまつりける時
僧正行意
藤代のみ坂を越えて見わたせばかすみもやらぬ吹上の浜


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