2020年兵 庫

赤穂城跡〜大石邸長屋門〜
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赤穂市上仮屋の赤穂城跡に行ってみた。

大手隅櫓


大手門


国史跡 赤穂城跡

 赤穂城は、近世になって発達した軍学・兵法に従って縄張された城であり、本丸、二之丸、三之丸のすべての郭が残された貴重な近世城郭遺構であることから、昭和46年(1971年)に国史跡に指定された。

 現在見ることのできる赤穂城は、浅野内匠頭長直が寛文元年(1661年)に完成させたものである。城は熊見川」(現在の千種川)河口の西岸に位置し、南は瀬戸内海に面した海城で、変形輪郭式の平城である。縄張りは藩の軍師であり、甲州流軍学者であった近藤三郎左衛門純が行い、12の城門と10の隅櫓を築いた。

 本丸には藩邸や、池泉庭園、天守台が、二之丸には大石頼母助良重の屋敷や、錦帯池を中心とした二之丸庭園、遊水池、米蔵、馬場などがあった。また、三之丸には大石内蔵助良雄をはじめとした重臣たちの屋敷が配されており、城と熊見川との間には藩の米蔵と舟入が備えられていた。現在では大石良雄宅跡長屋門と近藤源八宅跡長屋門が江戸時代の建物として残されている。

 城内、城下には熊見川から取水し、各戸給水を成し遂げた上水道が敷設されており、日本三大上水道の一つに数えられている。上水道の余水は、邸宅に設けられた庭園池泉にも使われた。池泉庭園のうち「本丸庭園」と「二之丸庭園」は江戸時代の大名庭園「旧赤穂城庭園」として、平成14年(2002年)に国の名勝に指定された。

枡形から見た大手隅櫓


 延宝3年(1675年)、浅野長友が江戸で死去、長矩が跡を継ぐ。

 元禄7年(1694年)、浅野藩による備中松山城請取り。

 元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城において刃傷事件を起こす。翌日切腹、赤穂浅野藩断絶。

 元禄15年(1702年)12月15日、大石内蔵助をはじめとする赤穂義士が吉良邸に討ち入る。

大石邸長屋門


 この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約26.8メートル、奥行約4.8メートルの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元禄14年3月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。

 安政3年(1856年)に大修理が行われ、大正12年国の史跡に指定された。

 更に昭和37年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和52年11月から国、県及び市の負担により、総工費3,138万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和53年10月末に復元完了した。

赤穂大石神社へ。

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