延宝4年(1676年)、御三家尾張徳川家の御鷹場が中清戸(現.清瀬市)に造られた。将軍もしばしば出掛けて、鷹狩りを行った。これが現在の目白通りである。 首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から目白通りに向っての広い道(現不忍通)は、昔から”清戸道に登る坂”ということで、「清戸坂」といわれた。 江戸時代、この坂の北側一帯は雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で、坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。 明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。牛乳を売る店があり、人々が休憩した。旗竿には「官許の牛の乳」と假名文字とローマ字で書かれていたという。 |
永禄4年(1561年)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣山村丹右衛門が清土の地辺りから鬼子母神を掘り出し、星の井で清め東陽坊という寺に納めた。 |
本浄寺より南にあり。この地を清土といふ。蒼林の中に小社(こみや)あり。則ち雑司ヶ谷鬼子母神出現の地にして、同じ神を鎮(まつ)れり。社前にある所の井泉を星の清水と号く。往古(そのかみ)鬼子母神出現の頃、この井に星の影を顕現(あらは)せし事ありし故に名づくるといへり。(その井桁の形三稜なる故に、土俗三角井とも字(あざな)せり。)
『江戸名所図会』(雑司ヶ谷鬼子母神出現所) |
雑司谷 星跡清水 別当大行院持 田の中に一ツの茂松あり此ところは鬼子母神出現の所新滝川トモ云三角の井戸有 |
碑陰 文政中果山(文化中杲山)宗周建之 |