下 町荒川区
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道灌山〜西日暮里公園〜

JR西日暮里駅の西の高台に西日暮里公園がある。


青雲寺境内と前田家墓地

 かつてこの地には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松があり、荒川(現隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を臨むことができる景勝地として、多くの人びとが訪れた。花見寺の一つ青雲寺(西日暮里3丁目6番)の境内の一部で、金比羅社なども祀られていた。

 明治7年(1874年)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され、同家墓地となった。前田家12代当主の斉泰(なりやす)から4代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和47年(1972年)に国許の金沢(石川県)に改葬され、翌48年、その跡地にこの西日暮里公園が開設された。

 なお、この地にあった日暮里舟繋松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺に移されている。

荒川区教育委員会

『江戸名所図会』


一名(いちみやう)を城山ともいへり。南は新堀(につぽり)を限り、北は平塚に接す。往古(むかし)太田道灌江戸城にありし頃、出張(でばり)の砦城とせし跡なりとも、又関道観坊(せきのだうくわんばう)といへる者の第宅(やしき)の地なりとも云ひ伝ふ(道観坊、はじめは小次郎長耀(ながてる)といふ。後、薙髪して道観坊と号(なづ)くるとぞ。谷中感応寺の開基にして、即ち感応寺を長耀山(ちやうえうざん)と称するもこのゆゑなり。)此地薬草多く、採薬の輩(ともがら)常にこゝに来り。殊に秋の頃は松虫・鈴虫、露にふりいでゝ静音(せいいん)をあらはす。依つて雅客(がかく)幽人こゝに来り、風に詠じ月に歌うてその声を愛せり。


道灌山


安藤広重「江戸百景」

 道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政3年(1856年)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里4丁目付近にその名が記されています。この公園を含む台地上に広がる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。

 道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道灌が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたと言われています。

 道灌山・ひぐらしの里は、荒川区内で最も古い歴史をもつ所です。このあたりから出土した土器や、貝塚・住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。

 道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。

桃さくら鯛より酒のさかなには


   みところ多き日くらしの里
   十返舎一九

 雪見寺(浄光寺)月見寺(本行寺)、花見寺(妙隆寺<現在は廃寺>・修性院・青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が伝えられています。

 明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり、『道灌山』という紀行文を著しました。

山も無き武蔵野の原をながめけり


    車立てたる道灌山の上
   子規

 昭和48年、ここ西日暮里公園が開園し、区民の憩いの場となっています。

道灌山虫聴


「大日本名所図会」尾形月耕画

 江戸時代から明治時代にかけて道灌山は虫聴きの名所でした。

 『江戸名所花暦』(文政10年(1827年)刊行、文は岡山鳥で絵は長谷川雪丹)には、つぎのように書かれています。



 「道灌山 日暮より王子への道筋、飛鳥山の続なり。むかし太田道灌出城の跡なりといふ。くさくさの虫ありて人まつ虫のなきいつれはふりいてヽなく鈴虫に、馬追ひ虫、轡虫(くつわむし)のかしましきあり。おのおのその音いろを聞んとて、袂すヽしき秋風の夕暮より、人人是にあつまれり。また麻布広尾の原、牛嶋もよし。」

 虫聴きの名所は、道灌山が最も有名で、とくに松虫が多く、澄んだ音色が聞けたといいます。このほか真崎(南千住白鬚橋のたもと)、隅田川東岸(牛嶋神社あたり)、三河島(荒木田の原あたり)、王子・飛鳥山辺、麻布広尾の原が虫聴きの名所でした。

 『東都歳時記』によれば旧暦7月の末、夏の終わりから秋の初めにかけて「虫聴」がさかんだったと記されています。

 道灌山虫聴の絵は雪丹、安藤広重、尾形月耕が描いた3種類があります。広重の絵は公園入口に模写したものがあります。

 尾形月耕は、明治期に活躍した画家で、岡倉天心らとともに、美術界発展に尽くした人です。新聞の口絵・挿絵が有名でした。

 この絵は、道灌山に月が昇る頃、中腹にむしろを敷き、虫かごに虫を入れて鳴かせ、たくさんの虫に音色を催促しています。坂を上ってくる女性が足音をしのばせている姿もほほえましく感じます。

 この絵は明治末頃の作と思われますが、秋の夜長に涼を求めて老若男女がここにあつまり、自然の美しさ、すばらしさを楽しんでいたのです。

『江戸名所図会』(道灌山聽蟲)に其角の句がある。

まくり手に松むしさがす浅茅哉


天明元年(1781年)、太田南畝は道灌山の船繋松を見ている。

 太田金吾の船繋松あり。桑田碧海手のうらをかへせるがごとし。

「日ぐらしのにき」

大川立砂は船繋松を句に詠んでいる。

   道灌山船繋松にて

跡垂て繋ぐや松に月の船


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