2021年滋 賀

本福寺〜碑巡り〜
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京都駅から湖西線で堅田へ。


大津市本堅田に本福寺がある。

 本福寺は、中世には蓮如上人を崇敬し、堅田門徒の中心で、しばしば兵火を交えたが、十一代住職千那の代に至って俳諧の中心となり芭蕉も3度訪ねられた。

 今回、滋賀県俳文学研究会乾憲雄会長の発願により、芭蕉翁、其角丈草の句碑建立を縁に解説書を作る次第である。

本福寺二十世 前住職 三上明暢(号千遊)

芭蕉翁の句碑


からさきの松は花よりおぼろにて

 貞亨2年(1685年)芭蕉42才、大津で詠んだ名句の一つで、普通「辛崎の松は花より朧にて」と書かれている。これは現在の大津今颪の本福寺で詠んだと千那宛の芭蕉の手紙に記されている。真筆である。

其角の句碑


 大津まつもとにて
キ角
雪日や
 船頭どのゝ
  顔のいろ

 はじめ母方の姓榎本を、のち宝井氏と云った。父は江戸の医師で堅田にも住んだと云う。

 蕉門に入ったのは15才頃で書画にすぐれていた。

 宝永4年2月、47才で没。

 芝二本榎の上行寺に葬る。真筆。

丈草の句碑


水底を見て来た貌の小鴨哉

 内藤氏、継母だったので異母弟に家を継がせようとして遁世した。少年時代よりよく勉強し、京都で仙洞御所に勤めていた史邦のもとに身を寄せ、その縁で蕉門に入った。元禄2年である。元禄17年仏幻庵で寂。43才。真筆である。

三上千那の句碑


しぐれ来や
 並びかねたる
  いさざ舟

 千那は本福寺十一世住職明式と云う。貞享2蕉門に入った。書画にすぐれ、蕉門の迦葉と称せられた。十九世明温はその一代の記録をまとめ「千那誌」を発刊した。

 この碑は堅田ホトトギス派の俳人が主になって同好の人と共に建立したもので、筆者はホトトギス同人堺井浮堂氏である。

吐月の句碑


 高張を
(と)もし御講や
  千那寺

昭和59年(1984年)4月、建立。

 錦織良夫氏、昭和62年没。85才。

 堅田ホトトギス派で重きをなすと共に本福寺総代として、また堅田史研究家として大きな功績を残した。

 特に本福寺(千那寺)を詠んだものにすぐれたものが多い。

志賀廼家淡海の辞世


阿ゝお可笑(かし)
  唯わらわしに
       五十年
淡海節か
   残りやせめても

昭和31年(1956年)10月15日、急逝。

昭和41年(1946年)10月15日、建立。

 淡海節の作者として一世を風靡した喜劇俳優志賀廼家淡海の辞世である。

 本名田辺耕治は本福寺門徒、鹿児島の舞台で倒れるまで、多くの喜劇や親鸞劇、蓮如劇に没頭した。

「淡海節」は、知らなかった。

新しい句碑もあった。


千那寺としての今昔松の花

本福寺本堂


蓮如上人御像


平成5年(1993年)、山崎正義製作。

平成7年(1995年)11月、竣工。

不思議な色である。

三翁碑


 夜寒碑と並んで立てられ、芭蕉翁、千那翁、角上翁と書かれている。

 これは角上なきあと追慕のためたてられたもので最も古い。角上は十二世住職、同じく蕉門にいた。

夜寒碑


病雁の
 夜寒に落ちて
    旅寝かな

 元禄3年、芭蕉は堅田に遊び、風邪をひいて本福寺に病臥し、この句を詠んだ。

 句碑は翁が療養の室にほど近い場所に建てられている。

 この句は高校の教科書にも出ており、翁の真骨頂とも云うべきものである。真筆。

句仏上人の句碑


   千那二百回忌

山茶花の落花に魂や埋れなん

大正13年(1924年)、千那二百回忌記念に建立。

 大正14年来訪、今は無き大山茶花に三翁碑が埋れんばかりの落花を見ての句で文字は上人の真筆である。

 ほかに「塚近く藁打つ音も暮寒し」の句もある。

東本願寺句仏上人真筆


井泉水の書画


よく読めなかった。

出島の灯台へ。

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