其角ゆかりの地

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宝井其角寓居乃跡

大津市本堅田に本福寺という寺がある


本福寺の東に「宝井其角寓居乃跡」の碑があった。


其角邸跡

 この地は、蕉門十哲(芭蕉の高弟)の一人、宝井其角の父、竹下東順の出生地である。地元では「其角邸跡」と呼んでいる。

 医術を業とした東順は、慶安4年(1651年)に江戸に下り、膳所藩主本多公の江戸屋敷に仕えた。早くから風雅の心を有し、其角もその影響を受けるところとなった。

 寛文元年(1661年)7月17日、江戸で生まれた其角は、榎本(母方の姓)を姓とし、通称源助、幼名を八十八といった。俳号を其角としたのは、易の文の「其角を晋む」という言葉からの引用で、姓を宝井と自称したのは後年である。

 延宝2年(1674年)14歳で芭蕉の門に入った其角は、たちまちのうちに頭角を表した。以来、芭蕉の高弟として各地で蕉風の宣揚に努めた。とりわけ父の出生地である堅田には、心のふるさとを見い出し、しばしば杖を引き、同地を本拠に本福寺の千那をはじめ、膳所の菅沼曲翠、彦根の森川許六等々と親交を重ねた。其角の俳風の特色は、時代の活気を反映した明るさが本領で、洒落風として、師風にはみられない独自の境地を築いた。

 堅田をはじめ、湖畔での句には

      「初生やいとせいとゝせ柿の数」

      「蓬莱にあふみの婆々や松の雪」

      「婆に逢ひにかゝる命や勢田の霜」

      「帆かけ舟あれや堅田の冬けしき」

などの代表作がある。

 堅田は、今もなお蕉門の余韻を色濃く伝え、俳句会の盛んなところであるが、これら歴史は、同地をふるさととする東順に発し、其角によって築かれ、千那等を経て伝えられてきたといえる。

 其角は、宝永4年(1707年)・享年47歳でもって没した。江戸芝二本榎の上行寺に葬むられ、「うぐいすの暁寒しきりきりす」が辞世の句であった。

元禄元年(1688年)10月、其角は千那と共に堅田を訪れる。

   千那に供(ぐ)して父の古郷、
      堅田の寺へとぶらひけるとて

婆に逢にかゝる命や勢田の
   其角


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