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主神 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ) 相殿 下照姫命(したてるひめのみこと) 月読命(つきよみのみこと) 稚日女命(わかひるめのみこと) 軻遇突智命(かぐつちのみこと) |
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創祀は垂仁天皇18年秋(紀元前12年)とされ、古代には「日本書紀」に記された玉作部の移住地にもなりました。その後、物部氏と仏教受容問題で争った聖徳太子(厩戸皇子)は、当神社において戦勝を祈り、戦乱後は自ら観音堂を当地へ建立されたと伝わっています。一方、近世に至っては豊臣家が大阪城の鎮守神として祈り、その後、徳川の世に入っても大阪城代着任の際、当神社に参拝し定紋の捉灯を奉納する等その厚い信仰は引き続き継がれました。明治期から戦前にかけて、全国の神社が国家管理となり、社格も当社は「府社」となりました。 平成元年(西暦1989年)には「創祀二千年祭」を挙行しました。 |

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湊入りの玉つくり江に こぐ舟の音こそたてね 君を恋ふれど |

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豊臣秀頼公は文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀吉と淀殿のもとに大坂城でご出生されました。 秀頼公は一般にひ弱で優柔不断なイメージをもたれていますが、実際は「大兵にて御丈6尺5寸(約197cm)余り、たいへん賢い人なので他人の臣下となってその命令に従うような人物ではない『明良洪範』より」とされ、幼少の頃より帝王学を学び豊臣家の後継者、また摂関家の当主として相応しい素謡を身につけていました。 慶長16年(1611年)3月に京都・二条城において19歳の秀頼公と徳川家康(家格は豊臣家より一段舌の精華家)が会見した際に、家康が秀頼公の威風堂々たる養子を目の当たりにし、成長していく秀頼公の存在が徳川家の将来に不安をもたらすと考え、豊臣家の滅亡を誓ったといわれています。 秀頼公は22年間の短い将来の中、日本各地の寺社仏閣を再興し、また多くの民衆から支持を受け、徳川幕府に対峙する一方の雄として格別の権威をもって大坂城に君臨されました。 |
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当神社(垂仁天皇18年:紀元前12年創祀)は豊臣期に大坂城の総鎮守として崇敬され、この地が三の丸に位置したことから付近には前田利家をはじめ、宇喜多秀家、細川忠興など多くの武将が屋敷を構えていました。特に秀頼公、母淀君の崇敬は篤く、社領500石(南玉造町:現・玉造本町)を寄進され、当時大坂城内で行われた多くの神事に当神社の神職が携わっていました。慶長8年(1603年)3月には当時の奉行であった片桐且元、加藤嘉明に命じ当神社を復興され、その際建てられた石鳥居も境内に現存し、淀君と秀頼公を結ぶ胞衣(卵膜や胎盤など)を祀る胞衣塚大明神も鎮座しています。 このゆかりの地に真実の歴史を伝承する為、史料をもとに宮内庁などの協力を得て、当時を偲ばせる「摂関家」に相応しい衣冠束帯姿の秀頼公を再現致しました。 |

