2021年大 阪

葛井寺〜西国第5番札所〜
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藤井寺市藤井寺に葛井寺(HP)がある。

四脚門


西国第5番札所 紫雲山葛井寺 真言宗

 葛井寺(ふじいでら)は6・7世紀に百済王族王仁一族葛井氏らにより創建せられ、その後、四十五代聖武天皇が神亀2年(725年)本尊十一面千手千眼観世音菩薩を奉納せられ、3月18日僧行基菩薩によって開眼法要が営まれた。

 平城天皇の大同元年(806年)阿保親王が勅を奉じて再興、次いで在原業平が奥の院諸堂を造営し、ここに寓居せられた。

 永長元年(1096年)大和国軽里の住人藤井安基が寺塔の荒廃を再修し伽藍の美観を旧に復したので、その苗字から藤井寺とも称す。

 後醍醐・後村上両帝の御帰依篤く、元弘3年10月7日(1333年)仁王会を御修行あり、右中将楠正成を勅使として御綸旨を賜う。しかし、南北朝藤井寺合戦や戦国の兵火にて多くの堂塔焼失す。

 六十五代花山天皇河内石川の里佛眼上人を御先達として西国三十三所観音霊場を御巡錫(978年)の砌、當寺御本尊を拜跪し御叡感の余り。

   参るより頼みをかくるふじい寺 花のうてなに紫の雲

と御詠作あそばさる。

 永正7年(1510年)8月8日大地震により伽藍諸堂倒壊す。仝年11月寺僧諸国に大勧進して諸堂坊舎を旧故の如く修築す。その後、慶長6年(1601年)豊臣秀頼公及び徳川家代々の外護を受けて現在に至る。

四脚門を入ると、藤棚がある。


藤の季節ではない。

貞亨5年(1688年)4月、芭蕉は道明寺・藤井寺を巡る。

誉田八幡にとまりて、道明寺・藤井寺をめぐりて、つの国大江の岸に舎る。いまの八間屋久左衛門あたり也。

貞亨5年4月25日、猿雖(惣七)宛書簡

寛政7年(1795年)3月27日、一茶は藤井寺を訪れている。

 此堂よりの天王寺の塔、酉いぬの方に半里ほど、小村あり。東南の方より大和川流る。こゝより二里、藤井寺、西国五番の札処也。

小山団扇名物 藤咲くや順礼の声鳥の声


本 堂


真言宗御室派の寺である。

旗掛けの松

 大楠公(楠木正成)が湊川の戦いで客死した後も息子の正行、正時、正儀は戦いを続けて連戦連勝、正平2年(1347年)ここ藤井寺に於いても秘策を練って奇襲を掛け10倍の勢力を持った幕府側の細川顕氏に大勝したと云われております。この時「非理法権天」の旗を松の木に立て掛けたとの言い伝えから【旗掛けの松】として現在に残されてきました。

 この松の木は珍しく、三葉の松葉が現れ、この三人の息子のように、力を合わせ堅く一致団結すれば、どんな困難であっても打ち勝つ事が出来るとし、摩訶不思議な力が授かると語り継がれ、珍重されている次第でございます。

 また、楠木正成・正行親子、新田義貞等が奉納された大般若経も現存しております。

昭和45年(1970年)12月12日、高浜年尾は関西札所巡拝で葛井寺へ。

   十二月十二日 関西札所巡拝、藤井寺、葛井寺

鵯こもり鳴きて河内野寺多し

僧語る寺の縁起も年の瀬や

冬ざれやはせいせとある道しるべ

御秘仏冬ざれ在す頬のあたり


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