日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルは、東洋宣教の途次1549年(天文18年)日本に渡来した。 その後、鹿児島、平戸、山口で布教し1551年(天文20年)9月、大友宗麟の招きにより大分に来て布教した。かくてこの地は日本における布教の中心地となり、西洋文化が目覚しく開花した。 少年達はビオラを弾き賛美歌をうたった。これは日本で唱歌をうたった最初である。またクリスマスには、これも日本最初の西洋劇が演ぜられた。更に日本で初めての洋式病院さえあった。その後初等学校、問答学校、通訳学校、伝道師学校、コレヂオもあった。 実に大分こそは当時西洋文化の花園であった。 今聖師の像を建つるに当って、その昔をしのび一文を草する。 1969年12月3日 聖フランシスコザビエルの祝日
大分県キリシタン史蹟顕彰会 上田 保 |
永禄12年(1569年)頃、ドン・マンショは日向国児湯郡(現:宮崎県西都市)の都於郡城に生まれる。 |
信長時代に来日した宣教師ヴァリニヤーノの勧めで、九州のキリシタン大名大友宗麟、有馬春信、大村純忠等は少年使節をローマ教皇に派遣することになり、宗麟は姪の子13歳の伊東マンショを正使とした。有馬大村は13歳の千々岩ミゲルを正使に、原マルチニヨ13歳と中浦ジョリアン14歳を副とした。伊東マンショは一行の主席正使であった。これが世にいう「天正遣欧少年使節」である。 この少年使節一行は1582年2月20日(天正12年正月28日)、永遠の都ローマを目指して長崎の港を出帆し、雲煙万里の旅に出た。途中暴風雨、無風状態、海賊、疫病、船の故障等のあらゆる困難を克服して、ポルトガルの首都リスボンに上陸したのは、実に2年半後の1584年8月11日(天正12年7月6日)のことであった。その後ポルトガル、スペイン、イタリヤの各地で熱狂的歓迎を受け、ついに待望のローマ入りの日は来た。 時は1585年3月23日、ローマにおる限りの高位貴顕の士によって編成された壮麗な大行列は、晴れの少年使節を中心に延々と続き、スイス禁衛兵に衛られ、ラッパや音楽の演奏、殷々と轟く3百発の祝砲の中をバチカン宮に向かって行進した。ローマは街も家々の窓も歓喜と好奇に熱狂した市民で埋めつくされた。かくて少年使節は時のローマ教皇グレゴリウス13世に、日本の服装で拝謁した。この少年使節のニュースは忽ち全欧州に拡がり、日本少年の名をいやが上にも高からしめた。 帰路は逆コースをとって、1590年7月27日(天正18年6月16日)実に出発以来8年後、懐かしい長崎に上陸したが、既に宗麟は3年前にこの世を去り、ただ待っていたのは秀吉の厳しい禁教令であった。 その後の伊東マンショは神父として、ひそかに隠れキリシタン達に布教しながら清い生活を続け、慶長17年10月21日(1612年11月13日)43歳で病没した。 小社は創業11周年記念として、日本彫塑界の権威北村西望先生に依嘱して、伊東マンショがローマ教皇に拝謁のためバチカン宮に参入する像を創り、これを大分市に贈る。 昭和50年10月31日
株式会社 マリーンパレス 社長 上田保 識 糸永求 書 |
昭和25年(1950年)10月、設置。 昭和61年(1986年)5月、移設。 |
昭和25年、本県出身の彫刻(彫塑)家朝倉文夫の作品である白セメントで造られた「みどりのかげ」像が遊歩公園に設置されたが、屋外での風化が激しいため同じ型から造られたブロンズ像「みどりのかげ」を寄贈する
寄贈 ライオンズクラブ国際協会 337−B地区 第31回年次大会記念1985年4月 ガバナー 草本 玉喜 大分市内12ホストクラブ 一同 |
この制作は彫塑界の長老北村西望の出世作で1917年第2回日展に出品し、圧倒的称賛を博した作品です。 今度當社がとくに作者に乞うて、マリーンパレス創業5周年記念として、これを大分市民の皆様にお贈りいたします。 あなたが、このおどけたユーモラスな作品をご覧になって、ほゝえみと、慰めと、安らぎを感じ取って下さるなら、これに越した悦びはがざいません。 1969年10月31日
大分市生態水族館 上田 保 |
日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルが、国主大友宗麟の招きによってこの地で布教したのは、天文20年(1551年)のことであった。 それから僅か6年後の弘治3年(1557年)には、この地に早くも日本最初の洋式病院が建ち、ポルトガルの青年医師アルメイダによって内科はもとより、日本最初の洋式外科手術が盛んに行われた。 病院には外来のほか入院の設備もあって、永禄5年(1562年)には入院患者が百人を超えていた。さらに病院に来ることのできない患者のために巡回診療も行われていた。患者はこの新しい南蛮医術にあこがれ、はるばる京都や関東からさえ訪ねて来たと、当時の記録は報じておる。 またこの病院に日本最初の医学校が併設され、若き日本人学生が西洋医学を学んだ。 時は流れ世は移り、今この史実を知る人はきわめて稀である。我が社は創業8周年記念事業として、日本芸術院会員彫塑家古賀忠雄先生に依嘱してこの記念像を造り、これを大分市民に贈る。 像はアルメイダが、日本人助手と共に外科手術を始めようとしているところである。 昭和47年10月31日
株式会社マリーンパレス取締役社長 上田 保 |