2020年鹿児島

祇園之洲公園〜碑巡り〜
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鹿児島市祇園之洲町に祇園之洲公園がある。

ザビエル上陸記念碑


神に捧げた生涯

−飢餓にも迫害にも耐えた信仰−

 ローマ法王に絶対の忠誠を誓い、東アジアへの伝道をめざしたイエズス会士、フランシスコ・ザビエルが、日本に初めてキリスト教を伝えたのは、天文18年(1549年)のことです。

 リスボンを出航しインド・マラッカ・モルッカ諸島を渡り、飢餓と疫病に悩んだ末、ようやくトルレス神父等6名とともに鹿児島に上陸したのです。案内したのはマラッカで一行に加わったパウロ・ヤジロー(鹿児島出身)です。

 ザビエル一行は、当時の大守島津貴久の歓迎を受け、布教の許可を得ました。

 「この国の人は礼儀を重んじ、一般に善良で悪い心は持っていない。何よりも名誉を重んずるが、一般に貧しい。しかし、それを恥とは思っていない。」という感想をマラッカに書き送ったザビエルですが、その後仏教徒の反対にあい、わずか10ヶ月で肥前平戸へ移りました。

 子供を非常に愛し、特に子供に教えを広めることに力を注いだ人でした。

 この記念碑は、ルイ・フランセン(ベルギー)の作で、昭和53年に設置されたものです。

文部省唱歌「我は海の子」の歌碑


 一、我は海の子白浪の
      さわぐいそべの松原に
    煙たなびくとまやこそ
       我がなつかしき住家なれ

 二、生れてしほに浴して
      浪を子守の歌と聞き
    千里寄せくる海の氣を
       吸ひてわらべとなりにけり

 三、高く鼻つくいその香に
      不断の花のかをりあり
    なぎさの松に吹く風を
       いみじき樂と我は聞く

平成12年(2000年)7月20日、海の記念日に建立。

「我は海の子」の由来

 文部省唱歌「我は海の子」の作詞者宮原晃一郎は、明治15年鹿児島市鍛冶屋町に薩摩藩士の子として誕生した。10歳の時、父の転勤で北海道に移住したが、長じて小樽新聞社の記者であった。明治41年、幼い日、毎日のように通った故郷の海(錦江湾)の天保山海岸をしのんで作詞した「海の子」が文部省新体詩懸賞募集に応募して佳作入選した。

 翌年、国語読本に掲載され、続いて明治43年に読本唱歌として音楽の教科書に「我は海の子」と題して採用されてから、この歌は現在に至るまで、多くの人々に親しまれ国民的愛唱歌となって、広く歌われている。

 此処に文部省唱歌「我は海の子」の歌碑を建立し、作詞者宮原晃一郎の詩才を末永く後世に遺したいと思う。

知らなかった。

地下道を抜けると、「薩英戦争砲台跡」の碑があった。


祇園之洲と薩英戦争砲台跡

たった一度の実践

―世界の実力を知った薩英砲撃戦の遺跡―

 祇園之洲という名称は、稲荷川河口の祇園社(八坂神社)に由来します。五社のひとつとして歴代藩主の信仰が厚く、京都祇園社にならった祇園祭り(オギオンサァ)は、なお華やかな御神幸行列を伝えています。

 このあたり一帯は昔、遠干潟で祇園浜と呼ばれていたが、島津家27代斉興のもとで、藩政改革を断行した調所広郷が、兵士の屯集所として埋め立てました。

 その後、斉彬がここに砲台を設置し、薩英戦争で初めて実戦に供されたのです。正午に始まった砲撃戦は、3時間を経過し双方に相当の被害が出ていました。最後尾で祇園之洲砲台を攻撃していたレースホース号が、目の前の浅瀬に乗り上げたのはその時です。ところがすでに砲台は、イギリスの誇るアームストロング砲で打ち砕かれ、藩士たちは指をくわえて敵艦が救出されるのを見送ったのです。

 イギリス側の死傷者63名、薩摩側は死傷者13名でしたが、城下の被害はすさまじく西洋との力の差を知った薩摩藩は、この戦いを契機に開国へと動き始めました。

西南の役官軍戦没者慰霊塔


両軍戦死者13,240余人

−国内戦の悲惨さを物語る官軍将兵の寄せ墓−

 近代国家の産みの苦しみ―――と形容される西南戦争は、薩摩軍が維新の英雄、西郷隆盛を頭に戴き、7ヶ月間、政府軍と攻防を繰り返した悲惨な戦いです。この間の戦死者は、官軍側6,840余人、薩軍側6,400余人、あわせて13,240余人にのぼり、かぞえきれないほどの人々が親兄弟を失い、家を焼かれました。

 西南戦争最後の決戦場となった鹿児島でも、多くの将兵が倒れ。そのうち官軍将兵1,270余人は全員がこの祇園之州に葬られました。もとは官修墓地として墓石が整然と並んでいましたが、荒廃が激しく、昭和30年(1955年)、地下納骨堂に合葬され、西南戦争100年に際して慰霊塔が建てられました。

 塔は「悲」「苦」「悶」を表す3像の上に「和」像が据えられています。これは、生死の苦しみを離れ、安らぎを得ることを意味し、「和」像の光背は新時代に芽吹く新樹を象徴しています。

 また、納骨堂の前方には西南戦争に参加した青森県人が、戦乱の翌年明治11年(1878年)に建てた碑が残されています。

太田水穂の歌碑


みんなみの海のはてよりふき寄する
春のあらしの音ぞとよもす

平成2年(1990年)春、建立。

この歌は太田水穂が昭和2年3月九州各地を旅した時鹿兒島でよんだ作で、歌集「鷺鵜」の巻頭に見える。水穂は長野県広岡村の出身で、当時日本歯科医専の倫理学教授また歌誌潮音の主宰であり、その同人子弟には山茶花主宰安田尚義はじめ鹿兒島出身の俊英が多かった。

作者は錦江湾の大きな展望と南國鹿兒島の春の生気から感得した感動をこのような格の大きなゆったりとした声調を以て象徴し歌いあげた。蓋し短歌の大道ゆく秀抜の名歌と言えよう。

仙巌園へ。

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