大友は武運長久ならざりし宗麟に由りかがやかしけれ
「沙中金簪」 |
16世紀半ば過ぎ世界地図のさいはて 日本列島の一つ九州が「ブンゴ」と記されていた頃 古代豊ノ国の名に恥じず「国も豊なれ 人も豊なれ」と念じて生きた男 その名を大友宗麟(義鎮)と号す 大友氏はその祖を源頼朝より出づると言われ約400年に亘り 九州一円に覇を唱え 就中 宗麟公の時代にはその威九州6ヶ国に及び中国 四国をも風靡した 時恰も泰西文明の東漸にあたり ポルトガル イスパニアの商船我国に来るものあり 宗麟公 諸侯に先がけ神宮寺浦を開港し 盛んに通商を営みその文化輸入に努む 学校 病院 育児院をはじめ西洋劇 音楽 乳牛等あらゆる文物を摂取し 暗黒時代の日本に燦然たる西洋文明を移植し豊後府内の地を以って文化の中心 海外貿易の関門たらしめた 当時国崩しと呼ばれた大砲や鉄砲は宗麟公の輸入を以って始となす 而も宗麟公の雄図は海外に侍臣を派し亦 12歳の伊東ドン・マンショらをローマに派遣し日本人として初めて西洋の地を踏ましめその実態を見聞させし偉業は天正遣欧使節400周年を迎える今日 炳として青史に輝きその流れは永く我が文化に貢献し「風光り水澄む郷」大分に今甦り 英傑大友宗麟公の雄姿を新産都の表玄関大分駅頭に建立し誇りある象徴となす 「緑あふれる豊かな人間都市大分」 そこに人材雲の如く此の地に起こり 青雲の志を持つもの一世を覆うの気概に燃え 世界をリードする者出づるを願い日本芸術院会員富永直樹先生に托し 宗麟公の像を茲に除幕する |
1506年、イベリア半島のナバラ王国サビエル城(現スペイン)で生まれました。 イエズス会創設のメンバーの一人であり、アジア各地でキリスト教を広める中、日本での布教を決意します。 1549年8月、鹿児島に上陸し、その後、平戸、山口、境をへて京都に赴きますが、京都では思うように布教活動ができず、再び山口へ戻ります。 1551年9月、大友義鎮(宗麟)公の招きにより豊後府内(現大分市)を訪れ、領内でのキリスト教布教の許可を得ます。ザビエルは府内に2ヶ月滞在し日本を離れますが、これ以降、府内は日本におけるキリスト教布教拠点となり、ポルトガル商船や中国船が来航し、南蛮貿易が活発に行われました。その結果、府内は全国に先駆けて南蛮文化が目覚しく開花し、東洋と西洋の文化が交わる国際貿易都市として繁栄しました。 |
明治43年(1910年)、二十三銀行(現・大分銀行)本店として着工。 |
大正2年(1913年)、竣工。 |