天和3年(1683年)、大淀三千風は五智国分寺を訪れた。 |
さて名高き越後の護國山國分寺の大伽藍は、聖武帝御建立日域第一の五智尊、坐像五尺有餘、放光蓮臺に膝をならべて坐し給ふ。 |
宝永6年(1709年)、明式法師は五智国分寺を訪れている。 |
直江の浦いまは今町と云。安國山國分寺ほどちかし。五智の如來を禮す。抑當山は聖武帝の勅願にて、六十餘州に國分寺を建給ふ。そのひとつなりと、堂をめくつて、山有海有。 秋とても佐渡の弦藻(つるも)をこがね花 |
明和8年(1771年)4月、加舎白雄は関川の里を越えて北陸行脚に出発。五智如来に参拝している。 |
名だゝる五智の如来を拝みて、 芥子ちるや御仏達の爪はぢき |
天明2年(1782年)、田上菊舎は五智国分寺境内の鏡池を見ている。 |
これより先は、所謂こたの浜なり。爰を 過て国分寺有。境内に鏡池有。是即、他力 念仏一行と勧め玉ふ聖人の御面影を 自木像に刻ませ給ふ池なりと聞侍りて 着飾らぬ影こそすゞし鏡池 |
文化3年(1806年)、岩間乙二は五智国分寺を訪れている。 |
五智にて 住はこゝ椎の風折月さして |
承元元年(1207年)、親鸞聖人は越後の国に流罪となる。国分寺住職は境内に草庵を結び、親鸞聖人を住まわせたそうだ。 |
天保3年(1832年)、小林葛古は五智国分寺に参詣している。 |
本堂南向如来五体にて、聖武帝天平九年の草刹。文政十一年火災に掛るとぞ。本尊ともに新し。参詣の上、浜手江出る。境内に親鸞聖人五年草庵の旧地あり。
『五智まうで』 |
明治42年(1909年)6月5日、河東碧梧桐は高田から五智国分寺に詣でた。 |
六月五日。午前曇、午後雨。 雨中鶯池、暮雪、空哉、谷人等と直江津に遊んで、五智の国分寺に詣でた。 信州の額を磨し鼻を衝く山中に月余彷徨しておった目には、変化のない真平ラな海、曲折のない直ぐな砂浜が、却て一種の快感を与える。幾分囹圄を脱したような心持である。 ゆうべから蚊帳を吊った。 |