私の旅日記

二村山〜碑巡り〜
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豊明市沓掛町の二村山(標高71.8m)に行ってみた。


 寛元4年(1020年)、菅原孝標女は父の任果てて上京。二村山の中で泊まっている。


ニむらの山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木のしたに庵を作りたれば、夜ひとよ、庵の上に柿の落ちかゝりたるを、人々拾ひなどす。


鎌倉街道の標柱があった。


鎌倉街道

平安時代から鎌倉・室町時代を経て慶長6年(1601年)正月家康が東海道を制定し伝馬の制度を定めるまで京と鎌倉とを結ぶ主要幹線道路であった。

市内の通路

 大久伝−宿−二村山−濁池

当時の宿場

 八波木(矢作)・八ッ橋・沓懸(沓掛)・鳴海・熱多(熱田)

源頼朝の歌碑


よそに見しをさゝが上の白露をたもとにかくる二村の山

昭和60年(1985年)2月、建立。

頼朝がここを通ったのは建久元年(1190年)10月、露の季節であった。初めての出京に歌枕として名高い二村山は印象が深かったと思われる。珍しく頼朝の詠歌として『続古今和歌集』に残っている。この時の上洛で、後白河法皇、後鳥羽天皇に拝謁して右近衛の大将に任ぜられた。

豊明市観光協会

西行も二村山で歌を詠んでいる。

   久しく月を待つといふ事を

出でながら雲にかくるる月かげをかさねて待つや二むらの山


 貞応2年(1223年)4月8日、京都に住む隠者は鎌倉に下る途中、二村の山中を過ぎる。

 潮見坂ト云処ヲノボレバ、呉山ノ長坂ニアラズトモ、周行ノ短息ハタヘズ。歩ヲ通シテ長キ道ニスゝメバ、宮道(みやぢ)二村ノ山中ヲ遙(※「目」+「余」)ニ過グ。山ハ何レモ山ナレドモ、優興ハ此山ニ秀(ひづ)、松ハ何レモ松ナレドモ、木立ハ此松ニ作(な)レリ。翠(みどり)ヲ含ム風ノ音ニ雨ヲキクトイヘドモ、雲ニ舞鶴ノ声晴ノ空ヲシル。松性々々、汝ハ千年ノ貞操アレバ面替(おもがは)リセジ、再征々々、我ハ一時ノ命ナレバ後見ヲ期シ難シ。

   今日過ヌ帰ラバ又ヨ二村ノヤマヌ余波ノ松ノ下道


 弘安2年(1279年)10月20日、阿仏尼は二村山を越える。

 二村山を越えて行に、山も野もいと遠くて、日も暮れはてぬ。

   はるばると二村山を行過ぎて猶末たどる野辺の夕闇


二村山峠地蔵尊


市指定有形文化財

3体のうち、向かって左の頭部のない地蔵尊である。背面に「大同二」(807年)の刻銘がある。いつの頃か、旅人が盗賊熊坂長範に襲われたとき、身替りとなって肩から上が欠落したという伝説が生じた。

豊明市教育委員会

加藤暁台は二村山に登っている。

   仲秋ふたむら山にのぼりて

奥山は霰雲なりけふの月


井上士朗の句碑


み佛は大同二年すゝきかな

名古屋の俳人井上士朗が二村山に遊んだ折、地蔵尊の背面に「大同二」の刻銘があり、盗賊に襲われた旅人の身代わりとなり、肩から上が欠落した伝説に思いをかけて詠んだ句です。文化元年(1804年)序の『枇杷園句集』に載っている。

豊明市観光協会

二村や千鳥聞えるやまのきれ


山頂の展望台に向かうと、右手の茂みの中に芭蕉の句碑があった。


このあたり目に見ゆるものみな涼し

出典は『風俗文選』

「十八楼ノ記」には「見ゆるものは」とある。

 貞亨5年(1688年)6月8日、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれた際に詠まれた句。

昭和55年(1980年)、建立。

「切られ地蔵尊」があった。


市指定有形文化財

二村山切られ地蔵尊

胴体が斜めに切ったように上半身と下半身が別になっている。

下半身の背面に「古来仏依会大破建之 延宝七己(1679)と刻んであり、二村山峠地蔵尊の伝説を元に建立されたが落雷により折れたといわれる。

豊明市教育委員会

岳輅の句碑


二むらや三河に出るあきの月

昭和60年(1985年)2月、建立。

二村山は昔から鎌倉街道の歌枕として知られ、眺望にすぐれていた。江戸時代の中頃名古屋乗西寺の住職岳輅が士朗と月見に訪れた際に詠んだ句で、寛政6年(1794年)の『麻刈集』に載っている。

豊明市観光協会

展望台から御嶽山(標高3,067m)が見えた。


写真では分からない。

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