2020年鹿児島

天保山公園〜天保山砲台跡〜
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鹿児島サンロイヤルホテルから天保山公園に向かう。

途中に「坂本龍馬新婚の旅碑」があった。


昭和55年(1980年)、建立。作者は中村晋也

日本で最初の新婚旅行

−龍馬33年の生涯で最も平和な3ヶ月−

「王政復古の暁には、汽船を一隻造(しつら)へて日本の沿岸を廻ってみようか?」と龍馬はお龍の肩に手を置いて言いました。鹿児島に向かう薩摩藩船三邦丸の1シーンです。

 慶応2年(1866年)1月21日、苦心の末薩長同盟を成立させた龍馬は、宿舎の寺田屋で幕吏の襲撃をうけて負傷、西郷隆盛の勧めに応じて薩摩への湯治旅行となったのです。

 西郷隆盛小松帯刀、吉井友実、桂久武、それに龍馬の妻お龍も乗船して大阪を出帆。3月10日鹿児島に入港しました。仲睦まじい龍馬夫婦は、日当山から塩浸、栄之尾と温泉を巡り、谷川で釣りをしたり、ピストルで鳥を撃ったり、ミヤマキリシマが一面に咲く高千穂に登り、天の逆鉾をひきぬいたり、まさしくハネムーン気分を満喫しました。

 土佐の海援隊を作り、薩長を結びつけた明治維新最大の功労者の一人坂本龍馬は、この平和な薩摩下りからわずか1年半後、京都近江屋で暗殺され、王政回復の暁を見ることなく33歳の生涯を閉じたのです。

天保山公園に天保山砲台跡がある。


天保山砲台跡


薩英戦争の号砲

−当時日本の最強軍備でイギリスに挑む−

「撃てー」天保山、砲台隊長・鎌田市兵衛の合図で号砲が響き、錦江湾を威圧していたイギリス艦隊との間の戦いが開始されました。

 文久3年(1863年)7月2日(太陽暦8月15日)正午に始まった砲撃戦は、薩摩の必死の戦いで、イギリス側にも大きな損害を与えましたが、わずか、3時間で城下は壊滅的な打撃をうけ、最新式アームストロング砲の威力を思い知らされたのです。

 天保山砲台は、島津家27代藩主斉興が緊張高まる対外情勢に備えて着手、嘉永3年(1850年)に施工しました。さらに、後を継いだ斉彬も藩の沿岸各所に砲台を築造、大砲を集成館で造らせ、海防にあてたのです。天保山で行われた城下士全体の連合訓練を斉彬、自らが閲兵するほど、熱心に取り組んだと伝えられています。

 薩英戦争で海外の先進技術に目覚めた薩摩藩は、その後イギリスへの留学生派遣を行うなど、西洋技術の吸収につとめました。当時の砲台のうち、この天保山と祇園之州砲台跡があります。

調所広郷の像
(通称笑左衛門)


制作 日展会友 木佐貫熙

平成10年(1998年)3月、建立。

 幕末に近い文政10年(1827年)薩摩藩の借金は、五百万両の巨額に達していた。当時の藩の年収総額十数万両は、借金金利に遠く及ばず、正に破産の危うきにあった。

 時の島津重豪公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。

 広郷はその期待に応え巨額の負債を解決し、あまつさえ五十万両の蓄えさえ残した。

 更に藩政の興隆を図り、数々の土木工事を行った。平成5年8・6災害で惜しくも決潰あるいは撤去されたが、広く県民に親しまれた西田橋等甲突川五石橋も、天保山の造成も全て調所の発案である。

 改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通じた中国貿易の拡大や、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。

 だが歴史は時の為政者によって作られる。調所広郷は幕府に呼ばれ密貿易の罪を負い自害に追い込まれ、今も汚名のままである。

 しかし、斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業・富国強兵策・軍備の改革の資金も、明治維新の桧舞台での西郷・大久保の活躍も全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからと思う。

 此処に調所広郷の銅像を建立し、偉業の後世に遺ることを願う。

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