2020年青 森

蔦温泉〜碑巡り〜
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道の駅「奥入瀬」から国道102号で蔦温泉へ。

18年ぶりである。

大町桂月の歌碑があった。


世の人の
 命をからむ
  蔦の山
湯のわく処
  水清きところ

昭和49年(1974年)6月10日、五十年忌に建立。

碑 陰

 大町桂月先生は明治四十一年にはじめておいでになり、以来この地を深く愛され大正十四年六月十日こゝで病歿されました。五十年忌にあたり遺徳を偲びこの碑を建てる

大町桂月文学碑


大町桂月と蔦温泉

 大町桂月は明治・大正期を代表する文人の一人で、美文の創始者ともいわれている。本名を芳衛いい、明治2年(1869年)、高知市の旧武士の家に生まれた。幼い頃から漢学などの学問に親しみ、軍人や政治家などを志したが、文学の道に転じ、東京帝国大学国文学科在学中から学生文士として詩文を次々に発表した。

 明治31年(1898年)、出世作である美文・韻文集「黄菊白菊」を刊行し、その文名を不動のものとした。その後おびただしい数の作品を著して好評を博し、当時の青年で桂月の文学に親しまざるはなしとまでいわれた。その著作は多彩なジャンルにおよび、著書はじつに二百冊を超える。

 晩年はとくに自然美の探訪、発見につとめ、文筆のかたわら、全国を訪ねて紀行文を発表した。明治41年(1908年)8月、はじめて十和田湖を訪れるやその美しさに魅了され、翌年その紀行文を雑誌「太陽」に掲載したのをきっかけとして十和田湖は一躍有名になった。 その後も来訪を重ね、蔦温泉を拠点に県内各地を探勝するうち地元との絆を深め、大正14年(1925年)3月には蔦温泉に本籍まで移した。

そして同年6月10日、桂月は急な病に倒れ、この蔦温泉で56歳の生涯を閉じた。いまはの際まで酒に舌鼓を打ち、辞世を詠み、遺言を述べ、家族や友人をやさしく気遣いながらの最期であったという。蔦温泉には本碑のほかに、墓所また胸像と歌碑とがあり、十和田湖と八甲田の自然とを、いつまでも見守っている。「清文院桂月鉄脚居士」、生前自らがつけた戒名である。

十年(ととせ)あまり五とせ前に
見しわらや今こそ玉の
うてななりけり
       大正十年 於冬
       蔦温泉にて 桂月

平成7年(1995年)9月17日 桂月と蔦温泉を愛する有志一同建立。

碑 陰

 大町桂月生誕126年、没後早70年。桂月が明治41年に初めて蔦温泉の地を訪れて以来、ここの地を本拠に青森県内を行脚し、豊かな文才により青森県を広く世に紹介した功績は大きい。わたしたちは、そのことを決して忘れてはならない。
 
このたび桂月の終のすみかであり、生前最もかかわりが深かった蔦温泉主の手により、青森県内における桂月の足跡とその作品および関係資料を集大成した「酒仙・鉄脚の旅人 大町桂月」が出版された。

 爽秋の空のもと桂月と蔦温泉を愛するわたしたちは、この出版を心から喜ぶ。

 これを記念して蔦温泉の守護神となった桂月のことが末永く語り継がれることを願いこのゆかりの地に文学碑を建立する。

 碑文中の歌は桂月が大正10年11月に15年ぶりに蔦の地を訪れた時に詠んだ一首である。

 桂月の直筆をもってここに刻む。桂月の思い永遠なれ。

大町桂月文学碑


 蔦温泉の名は未だ世に現はれざるが、余の気に入りたる温泉也。なほ精(くわ)しく云へば、赤倉岳(南)の中腹に在り。一軒屋にて、本館には普通の旅客を迎へ、別館には自炊湯治客を迎ふ。温泉の質は塩類温泉にして、浴場三つ、その一つは四間四方にて、本館に接す。三方開けて、浴しながら月を見るを得べし。その一つは一間に五間、三つに仕切りて温泉を異にす。その一つは、一間に二間、三条の湯滝を懸く。湯舟の気持ちよきこと天下に稀れ也。

   大町桂月・著(蔦温泉「二.小杉未醒画泊の薬師如来」)

大町桂月の歌碑


沼に舟うけ
 姫鱒釣つて
風呂で月見る
 山の中
半年も蔦温泉に
籠城しせるつれづれに
  甲子春日
   大町桂月

平成11年(1999年)1月24日、大町桂月先生・生誕130年を記念して建立。

大町桂月の像


蔦温泉


千年の秘湯 蔦温泉


アントニオ猪木

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