翁名は如矢震庵と號す其先は土佐の人文政十一年伊豫國道後に生る學を三上是庵に受く明治維新の後松山城廓將廢毀せられむとするに當り翁深く之を慨し有司に説きて其厄を免れしめたり尋で家塾を松山に開き從學の徒千餘人に及ぶ後職を内務省愛媛縣に奉ず 明治二十三年町制實施に際し撰ばれて道後湯之町々長となるや先づ温泉を町營に移し全浴室を改造し新に又新殿靈之湯を設け更に道後鐵道の敷設道後公園の創開を促し以て温泉百年の大計を樹つ任に在ること十有三年爾来風月を娯み悠々自適明治四十年九月四日病みて卒す享年八十 翁性恬淡意濶如たり凡百の技通ぜざるなし而して温泉今日の偉容と隆昌とは全く翁の力に因る偉なりと謂ふべし嗚呼伊佐庭岡の翠鬱々として移ることなく熟田津の湯滾々として長に湧く正に翁の徳を頌するに似たり茲に其功を石に勒し以て不朽に傳ふ |