『延喜式神名帳』に「豊前国宇佐郡 八幡大菩薩宇佐宮」、「豊前国宇佐郡 比売神社」、「豊前国宇佐郡 大帯姫廟神社」とある。 |
明治32年(1899年)1月2日、夏目漱石は小倉から宇佐神宮を訪れている。 |
正月二日宇佐に入る新暦なれば にや門松たてたる家もなし 蕭条たる古駅に入るや春の夕
〔子規へ送りたる句稿 三十二〕 |
明治40年(1907年)7月11日、若山牧水は耶馬渓から宇佐神宮に詣で、別府から船で日向に帰った。 |
山陽道を經巡つて耶馬溪、宇佐八幡を見歩き終に此處に來た、今夜十一時の船に乗り組む筈だから明夜は細島、故郷の人となるも三日と待たぬ、
7月12日、鈴木財三宛繪葉書 |
昭和4年(1929年)11月23日、種田山頭火は宇佐神宮に参拝。 昭和13年(1938年)3月17日、山頭火は再び宇佐神宮に参拝。 |
宇佐神宮 |
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松から朝日が赤い大鳥居 |
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春霜にあとつけて詣でる |
昭和37年(1962年)5月13日、高浜年尾は宇佐神宮を訪れている。 |
貞亨元年(1684年)7月、大淀三千風は宇佐神宮を訪れる。 |
○宇佐境内 凡日本第二の殊勝(すさう)地。四面太(み)山のかくろひ。其内に龜形の森山。めぐりは菱形池。月瀬川。淺瀬川。寄藻川をおびて。中島となり。現の蓬莱山といふべしや。惣名菱形。龜山。又小倉山といへり。第一應神天皇。第二神功皇后。第三玉依姫。以上三所。南向。外に八ケ社を始として。無量の末社あり。社頭の美麗はさら也。廻廊の道すがら冷々靜々として。只虫がふりぬる鈴の聲。水のしらふる鼓の音。松の言(ものい)ふ太諄辭(ふとのりごと)に毛もいよだちて宿古(かみさび)たり。 |
元禄11年(1698年)6月7日、各務支考は宇佐神宮に参詣している。 |
此日宇佐の宮にまうつ神前に眼をとちてそのかみをおもひ奉るに感情まつむねにふさかる 鎧きぬ身もあはれなり蝉の聲 今宵は小山田のなにかしに宿すさるを芦惠のあるしにまねかれて風雅の物語なとしけるか捨かたき事にいそかれて宵のほとに歸るとて 短夜のうさとよむへし月の宿 |
橋を呉橋といひ川を 寄藻川といふ 一句 呉橋や若菜を洗ふ寄藻川
〔子規へ送りたる句稿 三十二〕 |
宝永2年(1705年)3月、魯九は長崎に旅立つ。途上、宇佐神宮に句を奉納している。 |
宇佐奉納 ふり向ハ猶有かたし春風 かうて居て水鶏聞ハや寄藻川 いちこ守る人にとハはや綾瀬川 |
御祭神 | 一の御殿 八幡大神(応神天皇) |
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二の御殿 比賣大神 |
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三の御殿 神功皇后 |
宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮 勅祭の大社であり 歴代天皇は伊勢の神宮につぐ宗廟 我朝の太祖 として御崇敬になられています また私たちの祖先は各地に宇佐八幡宮をお迎えして 氏神や鎮守のお社としました 神代に三神の比賣大神がご降臨になったこの宇佐の地に 約1400年前の欽明天皇32年 応神天皇のご神霊がはじめて八幡大神としてあらわれになり 各地を巡幸後この亀山にお鎮まりになりました のち弘仁14年 応神天皇の御母君であられる神功皇后をお祀りし 三殿のご鎮座となりました |
神護景雲3年(769年)、弓削道鏡は女帝称徳天皇(復祚:孝謙天皇)の寵愛を受け、「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」とするお告げが宇佐八幡大神より下されたと、うその奏上をさせた。天皇は真相を確認するため、和気清麻呂公を派遣した。 清麻呂公は「我が国は開闢以来君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」とのお告げを受ける。 道鏡の怒りをかった清麻呂公は大隅国へ流されたが、光仁天皇が御即位になり、宝亀元年(770年)清麻呂公は召し返された。道鏡は下野国薬師寺別当として赴任させられ、宝亀3年(772年)4月7日にその生涯を閉じた。 |
昭和45年(1970年)3月3日、高野素十は宇佐神宮で九州芹大会。 |
三月三日 宇佐神宮 九州芹大会 百人の大柏手や春の宮 めでたさの二つの円座なればなり
『芹』 |
享保元年(1716年)、露川は門人燕説を伴って西国を行脚。宇佐神宮に参詣している。 |
長洲のおのおのに案内せられて、宇 |
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佐の宮に詣づ。茂林の梢概すがごと |
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く、甲に似たるが故に、萬代の龜山と |
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なんいへる。遠く寶劔の徳を仰ぎて、 |
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神息のみだれ燒にや霧の山 | 居士 |