2009年山 梨

西行公園〜西行の歌碑〜
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南部町西行に西行公園がある。


西行公園に西行の歌碑があった。


東の方へ修行し侍りけるに富士の山をよめる

風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな

平成10年(1998年)6月30日、富沢町建立。

ふるさとの史跡 西行公園

風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな

 この歌は西行法師が文治2年(1186年、平家が壇ノ浦の戦いに敗れた翌年)68才の時、京から東国行脚の折駿河よりこの地に入り、噴煙がたなびいている富士山を見て詠んだもので、西行晩年の傑作であります。

 西行法師は平安末期より鎌倉初期の歌人で、動乱の世に自然と旅を愛し当時第一の歌人とたたえられ、新古今集に最高の94首が残されています。

願はくは花のしたにて春しなむそのきさらぎの望月のころ

(わたしが願うことは、桜花の下で春死のうということ、それも釈尊が涅槃に入られた2月15日夜の頃)

と、かねて望んでいたように建久元年(1190年)2月16日河内の国の山里で72才の生涯をとじています。

 西行という名前の由来は西行法師が東国行脚の途中、駿河の国より富士川に沿って甲斐の国に入り、この峠の下の村に庵を結び暫く住みました。故にこの村を西行村、峠を西行峠、峠までの坂道を西行坂と言います。

 この西行法師ゆかりの西行峠は、かつての甲駿往還であり身延道であります。文永11年(1274年)5月に日蓮上人が身延山へ入山する時この峠を越えており、万治2年(1659年)8月に深草元政上人が西行峠の素晴らしさを漢詩に残しています。戦国時代に甲州武田軍の駿河攻めや武田勝頼追討の徳川軍もこの峠を越えています。

 西行峠より見る富士山は「盆中の富士」といわれ、御坂峠、花水坂と並んで「富士見三景」と称せられています。大正初期に大町桂月(紀行文の第一人者)が富士見三景巡りにここを訪れ、西行峠のすばらしさを桂月全集に残しています。

南部町

元禄5年(1692年)5月21日、貝原益軒は西行坂越えて身延に向かう。

 廿一日。万沢を出て、半里ばかりさきに、西行坂あり。其上に西行松とて大なる松あり。万沢より南部へ三里、南部より身延へ三里、すべて興津より身延まで十二里なれど、其間、深山幽谷にて路けはしく、河おほければ、かねておもひしよりは、はかゆかず。


平成15年(2003年)3月1日、富沢町は南部町と合併、南部町となった。

西行公園から富士川を見下ろす


あいにくの曇り空で、富士山はよく見えなかった。

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