2022年山 口

野村望東尼終焉の宅〜百拾周年記念之碑〜
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防府市岡村町に野村望東尼終焉の宅がある。

明治維新勤王志士正五位望東尼終焉の宅
百拾周年記念之碑


昭和51年(1976年)5月、建立。

史跡 野村望東尼終焉の宅

望東尼は福岡の歌人 激動する幕末志士のかげにあって活躍した女流勤王家である 薩長の連合が成り討幕軍が三田尻から出陣しようとするとき寄萬先山口から防府に来て防府天満宮に七日間参籠して王政復古を祈った。間もなく病を得慶応3年11月62才で没したのち正五位を贈らる。

 野村望東尼寄寓の家(荒瀬ゆり子宅の離れを移築し、現在は増築されたもの)

 野村望東尼は、文化3年(1806年)黒田藩士浦野重右衛門勝幸の三女として生まれ、その名を「もと」と称した。

 24歳の時に野村新三郎貞貫に嫁ぎ、夫婦ともに和歌を嗜んだが、安政6年(1859年)、夫の死後尼となり、向陵院招月望東禅尼と称した。

 やがて勤王の志士との交流を深め、元治元年(1864年)には保守派などに追われた高杉晋作を自らの山荘に10日余り匿っている。その後、高杉晋作は、馬関(下関)で挙兵し、維新への足がかりを作った。

 翌慶応元年(1865年)、黒田藩における勤王派への弾圧で、望東尼も玄界灘の孤島の姫島に流されるが、高杉晋作の指示によって救出され、下関に身を寄せ、高杉の介護、最期を看取った。その後、小田村素太郎(小田村伊之助後の楫取素彦)と妻の寿(吉田松陰の妹)の親身な世話を受ける。

 慶応3年(1867年)9月薩長連合の討幕軍東上を聞くと、山口から勝坂を越え三田尻(防府市)に入り、歌友荒瀬百合子宅の離れに身を寄せ、9月25日から10月2日まで防府天満宮に「七日詣」をし、戦勝を祈願した。

 しかし薩摩軍が約束された期日に来ず、望東尼は三田尻に留まるが、その到着を見届けた後病に倒れ、荒瀬家本宅南8畳の間で宅において介護を受けたが、同年11月6日、62歳の生涯を閉じた。

 望東尼が多くの勤王の志士に影響を与え、明治維新の功労者のいほりであることから、「終焉の宅跡及び墓」は、明治24年(1891年)の望東尼の正五位贈位に際して、昭憲皇太后、三条公、毛利公などから資金援助を受け、楫取素彦の撰文、本田国敬の彰辞を刻み、明治27年(1894年)に改修されたものである。

防府市教育委員会

絶 筆


読めない。

 辞世の「雲水のながれまとひて花の穂の初雪とわれふりて消ゆなり」とは違うようだ。

皇紀二千六百年記念碑


八紘一宇

吉川安平書

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