2018年山 口

萩城跡〜毛利輝元公像〜
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萩市堀内に萩城跡指月公園がある。


毛利輝元公像


 毛利輝元公は、天文22年(1553年)毛利隆元の長男として安芸国吉田郡山城(現在、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。永禄6年(1563年)父隆元の死去にともない家督を継ぎ、祖父元就の手によって養育された。

 織田信長や豊臣秀吉と覇を競い、中国地方8か国112万石を領有する大大名に成長し、天正17年(1589年)広島に居城を築いた。豊臣政権下では五大老の一人となり権勢を誇ったが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで敗れ、周防・長門2か国36万9千石に削封された。慶長9年(1604年)、居城を萩に選定し、同年11月11日、萩城に入城した。萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心した。

 寛永2年(1625年)73才で没し、萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた。

萩 市

石垣を抜ける。


国史跡 萩城趾


指定史跡 萩城跡

 萩城は関ヶ原の役後毛利輝元が慶長9年(1604年)築城に着手し4年後の同13年(1608年)に至って完成したものである。萩市街の西北隅、指月山(標高143メートル)の麓に位置し山名をとって指月城とも呼ばれた。山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。当時輝元は隠居していたが、その子初代藩主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。以後代を重ねること、十三代敬親に至って幕末多端な国事を処理するに不便なため文久3年(1863年)4月山口に移った。ついで明治7年(1874年)建物の全てが解体された。本丸には高さ14、5メートルの五層の天守閣があったが、今はその台座のみ残っている。周囲には石塁を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と付属建物があった。この城は259年間防長両国政治の中心であり明治維新に大きな役割を果たした重要拠点でもあった。

萩市教育委員会

料金は210円。(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋と共通券)

萩城天守閣


 萩城は、関ヶ原の役に敗れた毛利輝元が防長二州・36万石の居城として、慶長9年(1604年)工を起こし同13年(1608年)完工した。桃山初期の形式を示す。白亜五層の天守閣は高さ8間(14.4米)初層は東西11間(19.8米)南北9間(16.2米)、最上層は東西3間半(6.3米)南北3間(5.4米)である。初層は、石垣前面にわたって半間を張り出し俯射装置になっていた。明治7年(1874年)解体まで270年間毛利氏13代にわたり萩城の象徴として威容を誇っていた。

 この写真は明治初期萩の小野為八が撮影したものといわれる。

 嘉永4年(1851年)3月5日、吉田松陰は藩主に従って萩を発ち、江戸に向かう。

  辛亥三月、熊旛に從ひて東武に遊學す。乃ち此の記あり。

一、三月五日  牢晴。是の日、熊旛萩城を發す。卯前半時、余井上某と同じく旛に先んじて發す。午時山口に抵(いた)る。


天守閣跡


明治43年(1910年)2月15日、河東碧梧桐は萩城跡を見にいった。

 朝城跡を見に出た。途中いかめしい石垣または塀などの、如何にも旧藩時代の遺物であるということを自白するような、荒墟の跡を通った。それが一ヵ所二ヵ所に限られておらぬ。町筋をなした果てから果てまで、高低一様ではないけれども、絶間なく引きつづいておるのである。


万歳橋


 萩市指定有形文化財(史跡)

明倫館 遺構 万歳橋

 嘉永2年(1849年)江向に新築された明倫館には、多くの藩校と同じように聖廟の前に水を巡らし、その中央に石橋が架けてあった。ハン(※サンズイ+「半」)水はハン池ともいい、中国上代の形式を模倣したもので、諸侯の学校であることの象徴である。ハンは半と同じ意味で、聖廟周囲の南半分にしか水がないことを意味している。橋は花崗岩で造られており、長さ4.05m、幅員3.15mの直橋で、橋脚はなく両岸の石垣の橋台に2本のアーチ式橋桁を渡し、その上に10個の短冊石を横に並べて造られており、中国風のデザインを施した太鼓橋である。

萩市

志都岐山神社


 志都岐山(しづきやま)神社は、明治11年(1879年)旧本丸付近に萩の有志が山口の豊栄・野田両神社の遥拝所を建立したのが始まりで、其の後、指月神社と称されていたが、明治15年 (1882年)現在の志都岐山神社となった。

 祭神は、毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳の5柱で、その他に、初代から12代までの萩藩主が祀られている。 現在も例祭が毎年4月と10月に行われている。

児玉花外の碑


三百年の萩の花一たび揺れて血の勝利

 児玉花外は、本名を伝八といい、明治7年(1874年)京都に生まれた。同志社、札幌農学校、東京専門学校(早稲田大学の前身)などに学んだが、いずれも中退した。熱血詩人と称され、「社会主義詩集」「ゆく雲」などの作品と「明治大学校歌」の作詞者として著名である。

 父精斎は現在の長門市深川板持の出身で、京都で医師を開業していた。大正13年(1924年)、花外は父の故郷を尋ね、湯本を基点に下関・山口・萩などの維新の志士ゆかりの地を遊歴して、「防長新聞」「関門日日新聞」に318の詩編を発表した。昭和18年(1943年)、東京で没した。享年70歳。

   三百年の萩の花一たび揺れて血の勝利

 この詩は、東京遊学中の山口県出身学生の親睦団体であった防長学生連盟のために、昭和2年(1927年)に、花外が作詞した団歌「防長学生連盟の歌」の冒頭の句である。碑は、萩文化協会が王政復古70周年の記念として揮毫を花外に依頼し、昭和12年に建立された。

萩市

静かで、よかった。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋


内部は見なかった。

松陰神社へ。

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