2022年山 口

井上公園〜七卿の碑〜
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山口線湯田温泉駅下車。

井上公園へ。

 この公園は、明治維新の大業推進に功があった井上馨候の生誕地として知られ、近隣住民や観光客の憩いの場所として広く親しまれている歴史公園です。

 もともとは南半分が井上家屋敷地で、北半分が大正時代に整備された七卿碑公園でした。それを昭和の初めに当時の山口町が引き受け「高田園(高田公園)」として、一体的に管理するようになりました。その語、平成24年3月に「井上公園」と改名しました。

 園内には、井上馨候の銅像や、文久3年(1863年)の政変で、京都から長州に逃れた七卿のひとり三条実美が寄宿した何遠亭(かえんてい)をイメージした休憩所や、かん難辛苦のなかに国事につくした功績を記念して建てられた七卿の碑があります。このほか、中原中也の詩碑や種田山頭火の句碑がたっています。

七卿の碑


 幕末、長州藩は勤王の公卿たちと連絡して、尊皇攘夷の先鋒となって働きました。これに対し幕府は、長州に政権を奪う野心があるとして長州藩士とそれに同調する三条実美ら七人の公卿に文久3年(1863年)8月退京を命じました。これが有名な七卿落です。

 藩主毛利敬親公はこれを迎え、三条らには井上家を増築して住まわせ、諸国の志士たちと王政復古のことを相談しました。七卿らの志はやがて実現し、明治の新鮮府樹立後、三条らはその中枢にあって活躍しました。

 この碑は七卿の忠誠をしのび、その遺跡を記念するため大正15年(1926年)11月に建立されたものです。

井上馨銅像


翌朝撮った写真である。

 井上聞多(のちの馨)というひとがあった。

 このひとは機略家としては高杉晋作以上だったかと思われるふしもあるが、しかし高杉はうまれつきの器量がスターとしての演技力も大衆動員力も十分にあったから、その盛名のかげに井上の存在は翳っている。もっとも井上自身は自分の分を心得ていて、維新後は伊藤博文の脇役になり、生涯脇役であることに甘んじつづけていた。政治的な主演役者というのは袂ひとつを払っても爽やかさが必要なのだが、井上にはそれが欠けていたのである。

司馬遼太郎『街道をゆく』(長州路)

所郁太郎顕彰碑


 所郁太郎は天保9年、美濃国赤坂に生れた。長じて京都に出、医学を学び、さらに大阪の適塾で西洋医学・洋学を修め、学・術ともに精進した。京都で医院を開いたが、長州藩の京都邸の近くであったので、藩の邸内医員を委嘱された。尊皇の志が篤く、長州藩士と深く交って時勢を通観し、医業をやめて国事に尽くそうとし長州に来住した。下関の攘夷戦にも参加し、七卿西下に際してはその医員を命ぜられた。

 元治元年9月、井上馨の袖解橋の遭難には、ただちに馳せつけ、数か所の刀傷を50数針縫い合わせる大手術をなし、瀕死の井上を奇跡的に救った。後年の井上の業績を思うとき、この所の治療を忘れてはならない。

 慶応元年正月、高杉晋作が兵を挙げ、藩の俗論党と戦った時、所は迎えられて遊撃隊の参謀となり、高杉に協力した。

 その後幕府の長州征伐に備えて、軍を進めようとした時、にわかに病んで、吉敷の陣中で歿した。27歳であった。

 明治になり特旨をもって従四位を贈られた。

三条実美公歌碑


 君かため
おもひ来にけり旅ころも
 なれし二木の
   かけは忘れす

 幕末の1863年8月、三条実美らが七卿落ちとなった当時、居室とした「何遠亭」のあった井上屋敷の門前に松と樫の大樹がありました。

 この歌は、三条実美がこの地に身を寄せていた頃を偲び、この二木を懐かしんでよんだ和歌です。

 樫の大木は昭和の初めの頃に風で倒れましたが、松は現在も残っています。

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