2022年東 京

清水谷公園〜大久保公哀悼碑〜

平河天満宮から清水谷公園へ。

道が分かりにくかった。

清水谷

江戸時代、この地にあった尾張徳川家の表門から南北に下る道筋を清水谷といいます。清水谷から喰違見附へと登る坂道が紀尾井坂です。

尾州公御館と井伊家の間の坂を云ふ。清水谷と唱ふるもこの辺の事なり(麹町八丁目へ出づる坂下までも清水谷の内なり。)このところの井を柳の井と号(なづ)くるは、「清水流るゝ柳蔭」といへる、古歌の意をとりてしかいふとなり。富士見坂は松平出羽侯の前をいひ、玉川の滝は同じ庭中にあり。駒井小路は富士見坂の上の方なり。駒井氏はこゝに住せらるゝゆゑに号(な)とするといへり。

『江戸名所図会』(清水坂)

清水谷

 江戸時代、この地域には紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があり、その頭文字から紀尾井町と呼ばれています。清水谷の名は、井伊家と紀州徳川家の屋敷境の谷筋から清水が湧き出ていたことに由来します。

 明治11年(1878年)清水谷付近で大久保利通が暗殺され、この地に「贈右大臣大久保公哀悼碑」(千代田区指定文化財)が建てられました。

 清水谷公園は東京市によって整備され、明治23年(1890年)に開園。昭和40年(1965年)に千代田区に移管されています。

 公園内には、大久保公哀悼碑の他に、江戸の水道施設である「玉川上水の石枡」(麹町3丁目2番地先出土)が展示されています。

千代田区

贈右大臣大久保公哀悼碑


 千代田区指定文化財

 明治11年(1878年)に暗殺された大久保利通をしのんで明治21年(1888年)5月に建立された碑です。

 大久保利通(1830〜1878)は薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の政治家で、明治維新後は版籍奉還や廃藩置県などを主導し、初代内務卿に就任しました。西南戦争の終結後、一部の士族らが大久保の政策に反発し、1878年5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂仮皇居内の太政官へ出任する途中の馬車を襲い暗殺しました。この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれています。

 湧水があったことから清水谷と呼ばれるこの周辺は、明治23年(1890年)に東京市によって整備され清水谷公園となりました。

千代田区

玉川上水の石枡(麹町3丁目2番地先出土)


 千代田区指定文化財

 この石枡は昭和45年(1970年)に国道20号線(麹町大通り)の共同溝拡幅工事の際に麹町3丁目2番地先で発見された玉川上水施設の一部です。

 玉川上水は、4代将軍徳川家綱公の命で、承応2年(1653年)に着工し、翌年に竣工したと伝えられています、取水地は羽村の多摩川上流で、四谷大木戸に至る約43kmを開渠で導水し、江戸市中へは石樋や木樋による暗渠で配水していました。

 この石枡は、江戸市中における本管の一部で、地中深く4段に積んだ大規模な構造を持っていました。1段目と2段目にまたがる部分に木樋の挿入口がありましす。石枡とともに出土した木樋は千代田区立日比谷図書文化館で展示されています。

千代田区

顕彰碑


 清水谷公園は北白川宮家の邸があった場所で、明治23年に東京市へ下賜され、同年東京市立清水谷公園となった。

 昭和31年都立公園となり、昭和40年、千代田区に当公園が移管され、「千代田区立清水谷公園」となる。

 移管後、公園内に先代秋元 薫氏が現建物である「偕香苑」を昭和59年に建設、以降茶室として利用され、広く日本文化の伝承と地域貢献に努めてきた。

 平成18年3月に御子息である、秋元 裕氏から「偕香苑」をより多くの方々に利用されたいとのことから、千代田区に寄贈された。

 千代田区として、秋元氏の意志を尊重し、「偕香苑」を茶道や生け花を始めとした各種の催し物に利用するなど、区民等の方々に愛される施設として活用するものである。

 秋元氏への寄贈に対する御礼と、これまでのご功績とご貢献に対し、衷心より感謝を申し上げ、ここに顕彰するものである。

千代田区

ホテルニューオータニが見える。


千代田区町名由来板

紀尾井町

 江戸時代の初期から、この界隈には大名屋敷が置かれていました。安政三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、紀伊和歌山藩徳川家上屋敷、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、近江彦根藩井伊家中屋敷がありました。

 紀尾井町の名前は、紀伊徳川・尾張徳川、彦根井伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。また、紀尾井坂より南、弁慶橋あたりまでの低地は、清水がわき出ることから「清水谷」と呼ばれていました。

 これらの大名屋敷は、明治五年(1872年)、新たに麹町紀尾井町に生まれ変わり、明治十一年(1878年)、麹町区に所属します。明治以降の紀尾井町は、政府用地、北白川宮邸(のちの李王邸、現・赤坂プリンス クラシックハウス[旧・赤坂プリンスホテル])や伏見宮邸(現・ホテルニューオータニ)、行政裁判所(現・城西大学)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになりました。

 明治七年(1874年)、赤坂喰違付近で岩倉具視が襲われ、同十一年(1878年)には清水谷前の道で、時の内務卿大久保利通が暗殺されました。事件後、現場近くの地に大久保利通の哀悼碑が設置され、のちに整備されて清水谷公園となりました。

 明治四十四年(1911年)、町名変更により紀尾井町と改め、昭和九年(1934年)、区画整理により北側の一部が麹町五丁目、麹町六丁目に編入されました。

 江戸時代は大名の、昭和初期までは宮家の閑静な邸宅地であった紀尾井町は、現在、高級ホテルやオフィスビルが立ち並び、皇居、政治の中心地である永田町、外国使臣を迎える迎賓館などに囲まれ、都心の中の憩いの場を提供しています。

紀尾井町町会

紀尾井町福田屋


昭和14年(1939年)10月、東京・虎の門で割烹旅館「福田家」(HP)開業。

昭和20年(1945年)7月、「福田家」紀尾井町に移転。

昭和21年(1946年)4月、「福田家」再開。

昭和44年(1969年)、別館「ふくでん」開業。

平成7年(1995年)、紀尾井町福田家ビル竣工。料亭「福田家」開業。

平成28年(2016年)6月、別館「ふくでん」の場所に「福田家」移転。

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡


 この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦3年(1657年)の大火後、この地を拝領しました。

 紀伊徳川家は、徳川家康公の十男徳川頼宜公に始まる家で、尾張家(九男徳川義直公)、水戸家(十一男徳川頼房公)とともに御三家と称され、頼宜公は慶長8年(1603年)常陸水戸藩主、慶長14年(1609年)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619年)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代に渡って明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍徳川吉宗公と14代将軍徳川家茂公は、藩主から将軍の座についています。石高は、ほぼ55万5000石でした。

 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。

千代田区観光協会

ザ・キャピトルホテル東急へ。

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