2023年東 京

四谷見附〜尾張名古屋藩徳川屋敷跡〜

JR中央本線四ツ谷駅下車。

幕末頃の四谷見附


四谷見附

 四谷見附は、山口藩主毛利秀就が普請を命じられ、寛永16年(1639年)完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、明治5年(1872年)に撤去され、現在は石垣がのこるだけである。

 当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から城門を経て出入るする構造で、現在の四谷見附橋は無かった。従って、新宿方面からの甲州街道は、外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城外郭に入る。

 明治以後、このような喰い違い構造が交通に障害となったため、明治44年(1911年)四谷見附橋建設が着工され、大正2年(1913年)に完成した(平成3年に架け替え)。

ソフィア通りに「尾張名古屋藩徳川屋敷跡」があった。


 この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637年)に拝領してから、藩主や四嗣が一次的に居住するなど様々な使われ方をしました。

 尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高地位に位置しました。義直は、慶長8年(1603年)甲斐府中藩主、ついで慶長12年(1607年)尾張清州藩主を経て、後に名古屋藩主となり、尾張一国と木曽の山林を領地としました。 尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。

 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字をあわせて「紀尾井町」という町名になりました。

ホテルニューオータニ


彦根井伊家の中屋敷があった。

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