2007年東 京

太田姫稲荷神社〜池田坂〜
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JR総武線御茶ノ水駅東口を出て、丸善脇の坂道を下る。


「池田坂」の標識があった。


池田坂

 この坂を池田坂といいます。名称の由来は、この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したためといいます。『新撰東京名所図会』には「池田坂は、北甲賀町の中央にあり、駿河台より小川町に通ずる坂路なり、其昔坂の際に池田氏の邸宅ありしより以て名とす、一名を唐犬坂といふとぞ。『新編江戸志』には「池田坂 唐犬坂とありて、むかし池田市之丞屋舗に唐犬ありし故、坂名とすと見えたり。」とかかれています。

 大名・旗本の系譜である「寛政重修諸家譜」によれば、この家は池田政長という人物に始まる900石の旗本と考えられます。

千代田区教育委員会

池田坂を下ると、太田姫稲荷神社がある。


辺りの高層ビルから取り残されたようなスポットである。

かなり詳しい説明が書いてあった。

太田姫稲荷神社

 太田姫稲荷神社は、我国の数多い神社の中でも極めて豊かな霊験伝承と古い由緒をもつ神社であります。

 神社に伝わる古絵巻と『駿河台文化史』(昭和10年神田史跡研究会)によると、当神社の縁起は9世紀の伝説に始まります。

 百人一首の名歌で知られる参議小野篁(802−852)は、その詩才は白楽天に比せられたほどで、平安時代第一の漢詩人といわれた実在の人物です。

 百人一首の名歌は「わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまのつり舟」。

 彼は遣唐副使にまで選ばれましたが、上司の横ぐるまに対立して讒言され隠岐に流されたことは有名な出来事です。

 絵巻物の伝承によると、承和6年はじめ、篁が伯耆国(鳥取県)名和港を出港してまもなく、海上にわかに6、7丈の大波が荒狂い、雷鳴はげしく轟き、今にも海底に引込まれそうになりました。

 篁は衣冠を正して船のへさきに座り、普門品(観音経)を熱心に唱えていると、白髪の老翁が波の上に現れて

 「君は才識世にたぐいなき人であるから、流罪になっても間もなく都へ呼返されるであろう。しかし疱瘡(天然痘=当寺しばしば大流行し多くの死者が出たが、その治療法がないため非常におそれられていた。)を患えば一命があぶない。われは太田姫の命である。わが像を常にまつれば、この病にかかることはないであろう。」

と告げおわると、八重の汐路をかきわけて、かき消すように姿を消して行かれたという。そのお告げのとおり、篁は翌年はやくも都へ呼返されました。彼は自ら翁の像を刻み、常に護持していましたが、のちに山城国(今の京都府)の南にある一口(いもあらい)の里に神社をつくって、祝い祭ったということです。

 江戸の開祖として知られる太田資長(後の道灌)には最愛の姫君がいたが、思い疱瘡にかかり、世にも頼りなく見えたところ、ある人が一口(いもあらい)稲荷神社の故事を話したので、急使をつかわして此の神に祈願した。使いは幾日もなく、かの神社から祈祷の一枝と幣をささげて帰ってきたが、この日からさしも重かった病もぬぐうようにいえた。資長朝臣は崇敬の念篤く、城内本丸に一社建立した。

 その後道灌資長は、この社を敬拝し、また姫君は此の社を深く信心してつかえるようになったが、ある時この神が白狐を現して、「われこの白の鬼門を守るべし」と託宣されたので、ついに鬼門に移して太田姫稲荷神社と奉唱するようになった。今から約543年前、第103代後花園天皇の長禄元年(1457年)のことである。

 慶長8年(1603年)8月徳川家康公が江戸城に入られた後、慶長11年(1606年)江戸城大改築を行ない、城内にあったこの社を西の丸の鬼門にあたる神田駿河台東側の大坂に移された。ためにこの坂は一口(いもあらい)坂(後に鈴木淡路守の屋敷ができたので淡路坂ともいう)と呼ばれた。 その後、代々の将軍これを崇拝し、その修理造営は徳川家が行ない、僧職が別当となりて神明奉仕した。この社は駿河台の鎮守として数々の霊験厚く、神威いちじるしきこと筆にも絵にも書きつくすことはできない。と古絵巻は伝えています。

 文化4年(1809年)3月7日、小林一茶は春里、雨十と浅草を始め、江戸市中の寺社巡りをして、太田姫稲荷神社を訪れている。

 七日 晴 春里、雨十と浅草巡。白金町、白幡イナリ、筋違相生橋、スルガ台太田姫、神田[明]神、湯島、上野大石灯籠、寛永八年十月十七日佐久間大膳亮勝之トアリ。大良(郎)イナリ、七軒寺町東陽寺[手]向野アリ。

『文化句帖』(文化4年3月)

雨十は上総木更津の俳友。

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