嘉永七年(安政元年−1854年)再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、ペリー上陸の碑が建てられた。
嘉永6年(1853年)6月3日(新暦7月8日)、ペリーの率いるアメリカ東インド艦隊、浦賀沖に入港。
嘉永7年(1854年)1月16日(新暦2月13日)、ペリー、旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再来。3月3日(新暦3月31日)、日米和親条約により下田が開港される。
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ペリー艦隊来航記念碑

この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。
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下田内港

下田内港は海ではなく、稲生沢(いのうざわ)川沿いにある。
大正2年(1923年)10月26日、若山牧水は東京霊岸島より伊豆下田港へ。
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東京霊岸島より乗船、伊豆下田港へ渡る
ほてり立つ瞳かき瞑ぢ乗合客の臭きにまじり海に浮べり
伊豆の岬に近づきしころ、風雨烈しく船まさに覆らむとす
どどと越ゆる甲板の大なみ船室には五十のひとの生きてゐるなり
第7歌集『秋風の歌』 |
28日、下田港より灯台用便船に乗り、神子元島に渡る。
下田港より灯台用便船に乗りて神子元島に渡る、一木なき岩礁なりき
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船は五挺櫓漕ぐにかひなの張りたれど涛黒くして進まざるなり
第7歌集『秋風の歌』 |