2007年下 町

霊巌島の由来碑〜越前堀児童公園〜
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中央区新川に越前堀児童公園がある。


越前堀跡

所在地 中央区新川一丁目・二丁目

 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積みで、今でも建築工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものと見られる石垣石が出土することがあります。堀の幅は12〜15間(20〜30m程)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。

 明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名になりましたが、堀は次第に埋め立てられていきます。大正12年(1923年)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後、町名が改められ「新川」となって現在に至っています。

 今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園に見られるのみとなりました。

中央区教育委員会

越前堀児童公園に霊巌島の由来碑があった。

霊巌島の由来碑


霊巌島の由来

 当地区は、今から370−80年前、江戸の城下町が開拓されるころは、一面の沼地葭原であった。

 寛永元年(1624年)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第1歩を踏み出し、同11年(1635年)には、寺地の南方に越前福井の藩主松平忠昌が27,000余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。

 邸の北、西、南3面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。

 明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移ってきた。

 明治大正年間には富島町、四日市町、浜町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊巌島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の13町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心地であった。

 大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年(1931)7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川1、2丁目・霊巌島1、2丁目・越前堀1、2、3丁目と改称され、さらに昭和46年(1971)住居表示制度の実施により新川1、2丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。

  昭和52年3月

霊巌島保存会

箱崎の南にあり。(町数今十八町ばかりあり。)昔雄誉霊巌和尚、この地の海汀を築き立つてゝ梵宮を営みて、霊巌寺と号く。(依つて後世、霊巌島といふ地名起れり。初めは江戸の中島とよびしとなり。『東海道名所記』に、れいがん島も江戸の地をはなれて、東の海中へ築き出したる島なりと云々。)後世寺を深川へ移されて、その跡を町家となし給ふといへり。故にこの地の北の通りより茅場町へ渡る橋を、霊巌橋と号けたり。

『江戸名所図会』(霊巌島)

 小林一茶と親しく交友していた中村桂国は、文化8年(1811年)12月2日から4日まで3日続けて霊岸嶋を訪れている。

 明治42年(1909年)11月11日夕、東洋大学の創設者井上円了は霊岸島より乗船、翌12日午前3時、大島元村に着岸、船中にとどまること2時間余にして上陸。

 大正2年(1913年)10月26日、若山牧水は東京霊岸島より伊豆下田港へ。

 昭和8年(1933年)4月2日夜、与謝野鉄幹は妻晶子、末娘藤子、友人井上苔渓の4人で霊岸島から大島に向かい、船中泊。3日、波浮村の「松友館」泊、5日。元村の「三原館」泊。

単調に堪へざる男わが手もてわざとも開く驚異の世界

手荷物を前にしながら船まてばみな新京へ立つ如きかな

五百人みな大島へ船に乗る誰が心にも椿のあらん

美しく灯をば列ねて行く島の椿を既に盛る如き船


『伊豆の踊子』で「私」が下田から乗る汽船も霊岸島に着くのだった。

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