下 町台東区
indexにもどる

上野恩賜公園〜野口英世銅像〜

明治9年(1876年)5月9日、上野恩賜公園開園。

国立西洋美術館を出ると上野駅側に「みどりのリズム」の像があった。


昭和26年(1951年)11月、松坂屋寄贈。清水多嘉示作。

昭和56年(1981年)、清水多嘉示は84歳で死去。

「みどりのリズム」の像は岡山後楽園外苑の入口にもある。

上野公園に野口英世銅像があった。


野口英世銅像

 野口英世は、明治9年11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。31年、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、33年12月に渡米、37年よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正7年からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年5月21日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年53歳。

 野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、製作者は多摩美術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BONO HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。

 銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県三春町出身の玉応(たまお)不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定した。

 昭和26年3月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。

 なお、銅像前面の標示石・敷石は昭和46年に会津会が設置したものである。

台東区教育委員会

 明治22年(1889年)5月25日、吉田三郎は石川県金沢市に生まれる。

 明治40年(1907年)3月、東京美術学校彫刻科に入学。同期に北村西望がいる。

 昭和10年(1935年)、千代尼百五十回忌に当たって聖興寺に千代尼堂建立。

 昭和28年(1953年)、「雲に漂う」制作。

 昭和37年(1962年)3月16日、急逝。享年72歳。

ボードワン博士像
Dr.A.F.Bauduin


昭和48年(1973年)10月5日、建立。

 オランダ一等軍医ボードワン博士は1862年から1871年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園作りを提言し、ここに1873年日本で初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。

昭和48年(1973年)10月5日、恩賜上野動物園開園。

上野動物園は長蛇の列だった。


小松宮彰仁親王銅像


明治45年(1912年)3月18日、除幕。作者は大熊氏廣

多くの外国の方が写真を撮っていた。

騎馬像は写真を撮るのが難しい。


下 町台東区に戻る