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大正11年(1922年)9月17日、永井荷風は雑司ヶ谷霊園に小泉八雲の墓参。 |
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午後雜司ケ谷墓地を歩み小泉八雲の墓を掃ふ。塋域に椎の老樹在りて墓碑を蔽ふ。碑には右に正覺院殿淨華八雲居士。左に明治三十七年九月二十六日寂。正面には小泉八雲墓と刻す。 |

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東條首相は朝から晩まで演説、訪問、街頭慰問をして、五六人分の仕事をしている。その結果、非常に評判がいい。総理大臣の最高任務として、そういうことを国民が要求している証拠だ。
清沢洌『暗黒日記』(昭和17年12月9日)
東條内閣、総辞職す。この日本を不幸に陥らせた責任内閣は、かくて内輪割れの結果崩壊す。笠原清明の話しでは、投書なども沢山あり、刑事すらも、腹でも切れば許されるだろうが、オメオメ生きていれば殺されるかも知れないといったと。
清沢洌『暗黒日記』(昭和19年7月20日) |

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このあたりには、江戸時代中期の享保4年(1719年)以降、幕府の御鷹部屋がありました。御鷹部屋には、鷹匠頭をはじめ目付、同心など常時7、80名がおり、鷹狩りに用いる鷹の飼育や訓練などを行っていました。 また、鷹狩りの際には、将軍が立ち寄って休息したり、食事をとったりしたしたこともあったようです。 御鷹部屋敷地内には松の木がありました。この松の木は当時の様子をしのばせてくれます。 |



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道の辺に咲くやこのはな花にたに えにしなくして我か逢ふへしや花明 |
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一世ノ碩学金田一京助ノ靈コノ下ニ眠ル 京助ハ言語学者ニシテ特ニあいぬ語ニ精シク あいぬ叙事詩ゆうからヲ発見シテ世ニ伝エ マタあいぬ語文法ノ大要ヲ諦ム前人未踏ノ業蹟ニシテ タメニ文学博士恩賜賞ヲ受ク 昭和四十六年十一月十四日 老衰ヲ以テコノ地ニ生ヲ卒ウ 宮中ヨリ勲一等瑞宝章ヲ賜ワリ從三位ヲ贈ラル 一介ノ学者トシテ破格ノ待遇ト言ウベシ 京助マタ花明ト号シテ学究ノ余暇ヲ短歌ニ親シム 某年臘月小春日和ノ東京西郊ニ杖ヲ引き茅屋ノ農家ノ庭先ニ一株ノ桜ノ時ナラヌニ満開セルヲ見ル スナワチ感ヲ催シテ右ノ詠アリ ココニ録シテソノ風ヲ懐シム
不肖春彦 撰文建碑 |
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昭和14年(1939年)9月7日、泉鏡太郎歿。享年67。 昭和25年(1950年)1月20日、鏡太郎妻すゞ歿。享年70。 |




| 明治18年刻苦勉励末、女医公許の門戸を開いた吟子の波瀾と哀切の生涯が昭和45年小説「花埋み」で紹介されるや、根性と愛が読む人の心を揺さぶる。更に故里で武観戯曲「荻野吟子抄」舞台化要望の高まりに、平成10年妻沼出身松竹(株)茂木近専務が奔走し、10月名優三田佳子主演「命燃えて」の新橋公園が喝采を博す。次いで12年2月埼玉女性の根性と三田の熱演に感動した土屋義彦埼玉県知事の英断で埼玉公演が成功し、同13年3月女史生誕150年祭に道の駅のめぬまに開業記念姿の女史石像建立に際し、石匠熊谷市野口大作、彫師杉戸町山下隆雄の協力で吟子兄保坪四代の裔八王子市荻野正司家墓所改修と併わせ、女史が眠る此処と瀬棚に同じ像を贈り永く栄光を伝える。 |

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ふたりでみると すべてのものは 美しくみえる |


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文献院古道漱石居士 圓明院清操浄鏡大姉 |

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昭和38年(1963年)、「見上げてごらん夜の星を」は坂本九のカバーがヒットし、第5回日本レコード大賞作曲賞を受賞。 昭和60年(1985年)8月12日、坂本九は43歳で没。 平成4年(1992年)5月11日、いずみたくは62歳で没。 |
