2021年大 阪

蕪村公園〜碑巡り〜
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大阪市都島区毛馬町に蕪村公園があるというので、行ってみた。

 地下鉄御堂筋線「中津」駅下車、市バス34系統「守口車庫行」で「毛馬橋」下車。

蕪村公園に入ると、蕪村の句碑があった。


柳散り清水涸れ石処々

寛保3年(1743年)10月、奥羽行脚の帰途芦野に赴いた時の句。

与謝蕪村の生涯
与謝蕪村(1716―1783)

 蕪村は享保元年(1716年)に、摂津国東成郡毛馬村(現在の都島区毛馬町)で生まれました。20歳前に故郷の毛馬を出て江戸へ下り、間もなく早野巴人(宋阿)のもとで俳諧を学ぶようになります。また絵画も幼少の頃より親しんでいたようです。

 27歳で師宋阿と死別してからは江戸や関東を遊歴し、時には芭蕉の足跡を慕って奥州まで旅をしました。29歳のとき初めて「蕪村」を号することとなります。

 36歳の秋に京都へ上り、しばらくして丹後の宮津に移りました。この地で絵画の作品を多く手がけ、次第に実力が認められてゆきました。

 42歳の秋、京都に帰って、やがて「与謝氏」を名乗り、そして結婚、一人娘「くの」をもうけます。このころから、絵画にも俳諧にも、大きな進展が見られますが。そのうちまた讃岐へと旅立ちます。

 2年後に帰京したのちは、京都でも有名な画家として、魅力に満ちた名画を製作しました。また55歳の春、俳諧宗匠の地位につき、あわせて師巴人を継いで夜半亭二世を襲名、押しも押されるぬ俳人となって、数々の名句を生み出しました。

 60歳のとき、「春風馬堤曲」を発表。この作品は少女の帰省というかたちを借りて、生まれ故郷毛馬への郷愁のこころをこめたものです。初々しい叙情性あふれる名作です。

 天明3年(1783年)12月25日、蕪村は68歳でこの世を去り、京都東山の麓に葬られました。

 江戸時代、絵画と俳諧に大きな足跡を残した与謝蕪村、その人が生れたのは、まさにこの毛馬の地だったのです。

蕪村公園には蕪村の句碑が13基ある。



なの花や月ハ東に日ハ西に

安永3年(1774年)3月23日、蕪村・樗良・几董の歌仙の発句。



春の海終日のたりのたりかな

宝暦13年(1763年)刊行の『俳諧古選』(三宅嘯山編)所収の句。

遅き日のつもりて遠き昔かな」の句碑は、写真を取り損なったようだ。



楠の根を静にぬらすしぐれ哉

明和5年(1768年)の句。『夏より』に「九月二十七日 召波亭」とある。



芭蕉去てそののちいまだ年くれず

 安永5年(1774年)以前の句。『野ざらし紀行』に「年暮れぬ笠着て草履をはきながら」とある。



斧入れて香におどろくや冬木立

安永2年(1771年)の句。



稻づまや浪もてゆへる秋つしま

明和5年(1768年)の句。



鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな

明和5年(1768年)の句。



悲しさや釣の糸ふく秋の風

安永3年(1772年)の句。



夏河を 越すうれしさよ手に草履

 宝暦4年(1754年)〜宝暦7年(1757年)、蕪村が丹後滞在中に与謝郡加悦(現京都府与謝野町)に住む知人を訪ねた時に詠まれた句。



閻王の口や牡丹を吐かんとす

明和6年(1769年)の句。「波翻舌本吐紅蓮」と前書がある。



夕風や水青鷺の脛をうつ

 『幣ぶくろ』に安永3年(1774年)4月15日、東山門阿弥亭の歌仙の発句として収録。

蕪村の生誕地へ。

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