明治37年(1910年)1月、「上高地温泉ホテル(HP)」は「上高地温泉株式会社」として発足。当時島々村で清水屋を経営していた加藤惣吉氏を支配人にして営業を続けていた。 昭和3年(1928年)、惣吉氏が死亡。昭和6年、「株式会社上高地温泉ホテル」と名称変更。 昭和13年(1938年)、「上高地温泉ホテル」とは別に「清水屋ホテル」が営業を始める。これが現在の「上高地清水屋ホテル」である。 芥川龍之介を初め、若山牧水、斎藤茂吉、高村光太郎など多くの文人が滞在している。 |
料金は600円。ホームページをプリントアウトして受付に提示すると、200円を返してくれる。「本日空室あり」と書いてあった。1泊2食付きで10,000円。思わず泊まってみたいと思ったが、そうもいかない。 |
露天風呂にある樽風呂がよかった。樽風呂に入ると、ザザーッとお湯が溢れる。暫くするとお湯が一杯になる。また入ると、ザザーッとお湯が溢れる。これぞ掛け流しの温泉。 |
大正2年(1913年)には窪田空穂も「上高地温泉ホテル」に宿泊しているそうだ。 大正2年(1913年)8月9月、高村光太郎は油絵制作のため「上高地温泉ホテル」に滞在し、9月に長沼智恵子と上高地温泉で落ち合った。 |
大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴヰナス倶楽部で岸田劉生君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。 九月に入つてから彼女が画の道具を持つて私を訪ねて来た。
高村光太郎「智恵子の半生」 |
大正3年(1914年)、光太郎は長沼智恵子と結婚する。光太郎31歳、智恵子28歳の時である。 |
大正10年(1921年)10月15日、若山牧水は白骨温泉から上高地を訪れ「上高地温泉ホテル」に宿泊している。 |
立ち向ふ穂高が嶽に夕日さし沸きのぼる雲はいゆきかへらふ 『山桜の歌』 |
上高地周辺は10月の体育の日の連休が混雑するそうだ。牧水の頃は紅葉を見に上高地を旅行するというようなことはあまりなかったようだ。 昭和6年(1931年)6月24日、高浜虚子は「上高地温泉ホテル」に泊まっている。 |
飛騨の生れ名はとうといふほととぎす 昭和六年六月二十四日 上高地温泉ホテルにあり。小婢の名 を聞けばとうといふ。
『五百句』 |
昭和8年(1933年)10月20日、斎藤茂吉は「上高地温泉ホテル」を訪れている。 |
いで湯よりあがり来りてわれひとり濡れしタオルを釘にかけたり |