私の旅日記2011年

妙宣寺〜五重塔〜
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県内唯一の五重塔があるという佐渡市阿佛坊の妙宣寺に行ってみた。


妙宣寺は日蓮宗の寺である。

仁王門


古くから北陸道七ヶ国法華の棟梁で、寛文年中身延池上中山三ヶ寺の輪番所となり、明治11年独立本山と定められた名刹である。

もと順徳上皇に供奉した北面の武士遠藤為盛(日得上人)の開基と言われ、新保(金井町)にあったが嘉暦元年(1326年)雑太城主本間泰昌の居城付近に移り、後に今の地に移ったものである。

文永8年(1271年)日蓮聖人佐渡配流の時、日得は妻千日尼と共に深夜ひそかに食物を送ってその厄難を救った話は有名である。

日蓮真筆の曼陀羅・消息文、日野資朝の写経等を蔵するほか、境内にある文政8年(1825年)建立の五重の塔は、県内唯一のものである。

佐渡市教育委員会

五重塔


日光
東照宮の五重塔を模したという。

妙宣寺五重塔一基

 妙宣寺は、文永8年(1271年)佐渡に配流された日蓮聖人に帰依した阿仏房日得上人を開基とする。

 この五重塔は、文政10年(1827年)に佐渡相川の棟梁茂三右衛門父子によって建立されたもので、高さ24.1メートル、初重の総間3.49メートルの小型の塔で、塔身部が長い。

 この塔は、現在残る江戸時代に建てられた数少ない五重塔の一つで、比較的保存がよく、全体の比率や五重軒の扇垂木などに時代の特色があらわれており、組物に和様と禅宗様の肘木を混用し、心柱は杉の一本造りで、心柱と四天柱を各層で固く緊結するなど独自の手法もみられる。

文 部 科 学 省
本山阿仏房妙宣寺

国の重要文化財に指定されている。

昭和16年(1941年)4月26日、斎藤茂吉は妙宣寺の五重塔を見ている。

いつくしき五重の塔の立てる見つ佐渡のこころは淺からなくに

『霜』

山門


謡曲「檀風」と雑太城跡

 謡曲「檀風」は、正中の変に敗れ佐渡に流され、本間の館に預けられた大納言日野資朝に、熊野の山伏に預けられた一子梅若が一目会いに訪れ、再会後資朝は処刑され、梅若は本間を父の仇と思い討った事件を謡っています。

 日野資朝が本間の館雑太(そうた)城で詠んだ歌から雑太城を檀風城と呼ぶようになりました。

 本間の館雑太城跡に妙宣寺が建立され、日野資朝の墓と梅若の仇打ちの日の隠れ松の跡が残り、この地は謡曲「壇風」の舞台となった、佐渡市では唯一の謡曲の史跡です。

 佐渡市は、謡曲の創始者世阿弥や謡曲に登場する日蓮上人も流された由緒深い地です。

謡曲史跡保存会

日野資朝の墓


後醍醐天皇の正中2年(1325年)12月、日野資朝は北条高時のために佐渡に流され、檀風城に幽閉されること7年、元弘2年(1332年)城主本間氏は高時の命によって資朝を処刑した。

遺体はここで荼毘にし、遺骨は従者が高野山へ葬ったとも伝えられる。

資朝は明治8年真野宮に合祀され同17年に従二位を贈られた。

真野町教育委員会

 明治40年(1907年)11月20日、河東碧梧桐は妙宣寺に立ち寄り、日野資朝の墓を弔う。

人車を駆って河原田を辞し、途中阿仏の妙宣寺に寄った。日野資朝の墓を弔う頃しょぼしょぼ雨になった。寺に行く途中に檀風城の趾があるが、小高い平らな地面で、今は尺壕寸砦を止めず田になっておる。


2004年3月1日、真野町は合併により佐渡市の一部になった。

日野資朝の歌碑


秋たけし檀の梢吹く風に澤田の里は紅葉しにけり

本堂


 文久3年(1863年)再建

12間(22m)四面の大堂で、島内最大の堂宇。

江戸期本堂建築の様式を今に残している。

祖師堂


 明治13年(1880年)再建

6間(11m)四面三方縁造り、宗門最古の宗祖御木像(文永11年(1274年)在銘)並びに当山開山阿仏房日得上人、千日尼御前、捨身供養の御木像を安置す。

庫裡


 文久2年(1862年)再建

間口8間(14.5m)奥行20間(36m)の大建築にしては用材はすべて当国産の赤松で8間の通し梁が6本並列している。

大黒柱は2尺5寸(76cm)に1尺7寸(52cm)の角材で佐渡随一である。棟高は8間半(15.5m)破風造りの茅葺大屋根は全国にも珍しい。

人も少なく、静かな寺だった。

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