2016年長 崎

西坂公園〜日本二十六聖人殉教地〜
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長崎市西坂町の高台に西坂公園がある。


県指定史跡 日本二十六聖人殉教地

 慶長元年12月19日(1597年2月5日)に6人の外国人と20人の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁令のため大阪・京都で捕えられ長崎に護送され、長崎の町に面したこの地で処刑された。

 この26名の殉教のできごとは、ヨーロッパその他に広く伝わり、文久2年(1862年)ローマ教皇は、盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し、「日本二十六聖人」と称せられた。

長崎市教育委員会

昭和34年(1959年)3月、吉井勇は日本二十六聖人殉教地を訪れている。

二十六人の聖死にたるあとどころ弔らひたりき杢太郎と吾と

「『形影抄』以後」

日本二十六聖人殉教記念碑


昭和37年(1962年)6月10日、列聖100年祭を記念して建立。

台座に舟越保武制作の二十六聖人を模したブロンズ像がはめ込まれている。

 大浦天主堂は、その正式名称「日本二十六聖人殉教者聖堂」が示す通り、日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である西坂の丘に向けて建てられたと言われています。

昭和40年(1965年)11月16日、水原秋桜子は九州の旅に出る。

   あらたに成りし二十六聖人
   殉教の碑 三句

残菊や昇天の霊二十六

天国(ぱらいそ)の夕日を見ずや地は枯れても

霜に明け殉教の像はみな濡れぬ

『殉教』

西坂公園に水原秋桜子と下村ひろしの師弟句碑があった。



天国(ぱらいそ)の夕日を見ずや地は枯れても
   水原秋桜子

たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる
   下村ひろし

昭和60年(1985年)11月、棕梠俳句会建立。

下村ひろしは長崎県出身の俳人。産婦人科医。本名宏。

昭和3年(1928年)、長崎医科大学卒。

昭和8年(1933年)、「馬酔木」に入会し水原秋桜子に師事。

昭和22年(1947年)、『棕梠』を創刊・主宰。

昭和51年(1976年)5月、水原秋桜子の句碑を建立。

昭和60年(1985年)12月、『棕梠』終刊。

昭和61年(1986年)4月21日、没。

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