慶長元年12月19日(1597年2月5日)に6人の外国人と20人の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁令のため大阪・京都で捕えられ長崎に護送され、長崎の町に面したこの地で処刑された。 この26名の殉教のできごとは、ヨーロッパその他に広く伝わり、文久2年(1862年)ローマ教皇は、盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し、「日本二十六聖人」と称せられた。
長崎市教育委員会 |
二十六人の聖死にたるあとどころ弔らひたりき杢太郎と吾と
「『形影抄』以後」 |
大浦天主堂は、その正式名称「日本二十六聖人殉教者聖堂」が示す通り、日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である西坂の丘に向けて建てられたと言われています。 |
あらたに成りし二十六聖人 殉教の碑 三句 残菊や昇天の霊二十六 天国(ぱらいそ)の夕日を見ずや地は枯れても 霜に明け殉教の像はみな濡れぬ
『殉教』 |
天国(ぱらいそ)の夕日を見ずや地は枯れても | 水原秋桜子 |
|
たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる | 下村ひろし |
昭和3年(1928年)、長崎医科大学卒。 昭和8年(1933年)、「馬酔木」に入会し水原秋桜子に師事。 昭和22年(1947年)、『棕梠』を創刊・主宰。 昭和51年(1976年)5月、水原秋桜子の句碑を建立。 昭和60年(1985年)12月、『棕梠』終刊。 昭和61年(1986年)4月21日、没。 |