寿永2年(1183年)、倶利伽羅の戦いで木曽義仲に大敗した平家の軍勢は、加賀平野を南下し、篠原の地(現在の加賀市篠原町付近)で陣を立て直し、義仲との決戦を図りました。しかし勢いづいた義仲軍を阻止することはできず、平家軍はふたたび敗れさりました。 このとき、敗走する平家軍で、ただ一騎踏みとどまって、戦ったのが斉藤別当実盛でした。実盛老武者とあなどられることを恥とし、白髪を黒く染めて参戦しましたが、手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最期を遂げました。 樋口次郎兼光が討ち取った首を池で洗ってみると、黒い髪はたちまち白髪に変わりました。それはまがいもなく、その昔、義仲の命を助けた実盛の首でした。 この物語は『源平盛衰記』などに記されており、江戸時代から人口に膾炙されていました。 なお、実盛着用の甲冑を木曽義仲が多太神社に奉納したと伝えられており、元禄2年(1689年)、芭蕉が『奥の細道』の行脚の途中に立ち寄り、この兜によせて |
と詠んでいます。 |
久寿2年(1155年)8月、義仲が2才の時に父義賢(よしかね)が悪源太義平に討たれたが、斉藤実盛のはからいで義仲は母小枝御前とともに木曽に落ち、中原義遠の屋敷で生育した。 |
元禄16年(1703年)秋、岩田涼菟は門下の中川乙由を伴い、篠原を訪れている。 |
實盛の笹原は砂濱にして池といふへくもあらす |
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本文の草も錦もなかりけり | 乙由 |
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浪白し洗ひて見れは芋かしら | 涼菟 |
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明和8年(1771年)、加舎白雄は首洗池を訪れている。 |
実盛の墓は遊行のわたりといへる所に礒馴し松の一むら生つゝ首洗ひし池もへだてなき海となりたるなるべし。 篠原の濤すゞしとや白髪首 |
昭和6年(1931年)1月6日、与謝野晶子は首洗池を訪れている。 |
實盛が染めたる髪を亡きあとに洗はれし池うすらひぞする。
「深林の香」 |
昭和23年(1948年)6月、中村草田男は首洗池を訪れている。 |
芝山湖にちかく街道に沿ひて首洗池なる小池あり。 齋藤實盛の首級を得たる手塚太郎光盛、そが相貌 は實盛なるに頭髪黒きを怪みて此池に洗ふに、む ざんにも白髪あらはれきたりしとぞ。現在池中に 碑を樹つ。 青蘆が松の枯枝に丈とどく 青蘆の髪のみだれに日の光 青蘆密に齡を映す水面なし
『銀河依然』 |
昭和28年(1953年)10月26日、水原秋桜子は篠原古戦場の首洗池を見ている。 |
西岸一帯、源平合戦の篠原古戦場なり。 斎藤実盛の首級を洗ひしといふ池を見る あはれ池涸れなむとして蘆の花
『帰心』 |