永禄4年(1561年)の4回目の戦いで、謙信はただ一騎信玄目がけて駆け寄り太刀を振り下ろしたのを信玄は軍配で受けた。 |
明治42年(1909年)5月25日、河東碧梧桐は八幡原を訪れている。 |
八幡原は謙信、信玄接戦の地であるという。俗に七太刀八太刀ともいうて、それに生える麦は穂が曲るなどとも附会する。謙信すでに信玄の牙営に突入してこれを傷け、、今や一撃相搏(そうはく)せんとする時、原大隅鎗鞘をとる暇もなく、咄嗟の間謙信の馬を刺し、謙信大地に落ち僅に身をもって免れ、信玄また旗下に助けられて海津城に入る、などと当時のことを想えば一望ただ穂麦の戦(そよ)ぐ夕日影にも、テイ徊去る能わざるものがある。ささやかな八幡社の森の後ろに、徳本が供養のために建てたものであろう、六字の碑のあるのを見て、そこの茶店に休んだ。 |
昭和30年(1955年)8月、富安風生は川中島古戦場を訪れている。 |
川中島古戦場 七太刀の碑を草に立て青嵐
『古稀春風』 |
昭和43年(1968年)、水原秋桜子は八幡原を訪れている。 |
八幡原 旗指物ひしめきし野ぞ林檎咲く
『殉教』 |
永禄4年(1561年)の川中島の戦いで社殿は破壊され、信玄が再建させた。 |
貞亨3年(1686年)、大淀三千風は中山道から善光寺街道を行き、川中島に出て善光寺へ。 |
○即時に一軸かきちらし。揚松梯彌生坂。福島。宮越。鳥居峠本山。松本仇坂矢坂。青柳猿峠丹波島。川中島に出。むかし信玄謙信鼻々したまふ戰塲をかたり。善光寺日野屋なにがしが亭につく。先珠數とりて。其名も高き佛日の善光(よきひかり)ある御寺の境内繁々たる。 |
宝暦13年(1763年)、蝶夢は松島遊覧の途上、川中島を訪ねている。 |
河中島は甲越の雌雄を決せし所とかや。大河左右にながれ、高山四方をかこみて、実も地理そなはりて覚ゆ。 |
明和8年(1771年)8月20日、諸九尼は善光寺へ行く途中で川中島に立ち寄っている。 |
廿二日 善光寺へ行程に、大河をいくつもわたる。爰なん川中嶋といふ。むかしたけ田長尾など聞えし大将の、かせんありし所になん。人の軍書よめるを聞て、所々耳にとまりたる事を思ひつゞけて、かくおさまれる代のしづけく、今は法の道すじと成て、老たる尼ほう(ふ)しまでうちつれて行かふさま、誠に有難ぞおぼゆ。 |