俳 書

『更科紀行』


 貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉は姥捨の月を見ようと越人を伴い美濃の国を発つ。芭蕉45歳の時である。

越智越人随行塚


 さらしなの里、姨捨山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情を狂すもの又ひとり、越人と云。木曾路は山深く道さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をして送らす。おのおの心ざし尽すといへども、駅旅の事心得ぬさまにて、ともにおぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、なかなかにおかしき事のみ多し。

中山道鵜沼宿が「更科紀行首途之地」とされる。


更科紀行首途之地

おくられつ送りつ果ハ木曽の秋

荷兮・野水は餞別の句を贈っている。

   さらしなに行人々にむかひて

更級の月は二人に見られけり
   荷兮

   越人旅立けるよし聞て京より申つかはす

月に行脇差つめよ馬のうへ
   野水

『阿羅野』(荷兮編)

四十八曲峠を下り、善光寺街道八幡宿へ。

武水別神社


 桟はし寝覚など過て、猿が馬場・たち峠などは四十八曲がりとかや、九折重なりて、雲路にたどる心地せらる。

あの中に蒔絵書たし宿の月

桟やいのちをからむつたかづら

桟やまづおもひいづ駒むかへ

霧晴れて桟はめもふさがれず
   越人

八幡宿から姨捨山へ。

姨捨山


 山は八幡という里より一里ばかり南に、西南に横をりふして、すさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。

「更科姥捨月之弁」

   姨捨山

俤や姨ひとり泣月の友

長楽寺に芭蕉翁面影塚がある。


16日、坂城に泊まる。

いざよひもまだ更科の郡かな

苅屋原ミニパークに句碑がある。


更科や三よさの月見雲もなし
   越人

ひよろひよろと猶露けしやをみなへし

身にしみて大根からし秋の風



木曾の橡うき世の人の土産かな

送られつ別れつ果は木曾の秋

16日、善光寺参拝。

善光寺


   善光寺

月影や四門四宗も只ひとつ

軽井沢へ。

吹飛す石は浅間の野分哉

浅間神社に句碑がある。


ふきとばす石も浅間の野分かな

8月下旬、江戸に帰る。

9月13日、芭蕉庵で後の月見の宴。

木曾の痩もまだなを(ほ)らぬに後の月
ばせを(う)


 去年の秋より心にかゝりておもふ事のみ多ゆへ、却而御無さたに成行候。折々同姓方へ御音信被下候よしにて、申伝へこし候。さてさて御なつかしく候。去秋は越人といふしれもの木曽路を伴ひ、桟のあやうきいのち、姨捨のなぐさみがたき折、きぬた・引板の音、しゝを追すたか、あはれも見つくして、御事のみ心におもひ出候。とし明ても猶旅の心ちやまず、

元日は田毎の月こそ恋しけれ
はせを

「猿雖宛書簡」

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