戒壇めぐりすとて、同行を伴ひて如来のおはする壇の下を右遶(ウネウ)す。もとよりめざすもしらぬもいと暗き所にて、先へ行人の念仏する声をたよりにたどるに、世の中のあらゆる見る事聞ことの心をみだす事あらず、もはら心を一ッにして仏たのみ奉る声の、男女と声はかわれども、その人は見ず、聞およぶ六道の辻といふ処に死してさまよひ行と聞し、身にしみて覚ふ。
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天明3年(1783年)、加藤暁台は善光寺の十夜に参拝したようだ。
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御堂の十夜にまゐりあひて、又あひがたき法燈のかげにかゞまり、通夜の人々とゝもに念じつ。こよひ此みあかしに別れ奉らん事、名残をしう唯心細う覚て。
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十方十夜御仏の前去がたき
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天明4年(1784年)7月24日、菅江真澄は善光寺に参詣した。
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廿四日 御堂にまうてぬ。ここは水内郡柳原庄芋井郷。善光寺は天智天皇三年甲子に建て、本堂に四の名あり、定額山善光寺、南命山無量寿寺、不捨山浄土寺、北空山雲上寺也。しはしくまくまをかみめくれは、來迎の松といふあり。ここに刈萱道心の庵して、むらさきの雲のむかへをまたれしといひ、かるかや堂は、石堂丸すけして、をこなへる處といふ。
『來目路乃橋』 |
寛政3年(1791年)3月26日、小林一茶は江戸を発ち、出郷してから初めて柏原に帰る。4月18日、郷里に入る前に善光寺を参詣する。
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善光寺に参る。堂額ことし修造有て、仏も寂光の月新にかゞやきを添へ、蓮(はちす)は花の盛を待て、九品の露[を]あらそふ。
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以後、一茶は何度も善光寺を訪れ、善光寺にちなんだ句を50句以上も残しているそうだ。
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本堂の東に小林一茶の句碑がある。
寛政3年(1791年)4月29日、鶴田卓池は善光寺を訪れている。
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○二十九日 善光寺高サ十丈二重屋根
表十五間奥行二十五間アリ
山門仁王門経堂 知行千石
四門東定額山善光寺南南命山無量寿寺
西不捨山浄土寺北北空山雲上寺
大本願比丘尼上人也別当大寛寺一山天台四十六坊有
翁の吟 月影や四門四宗も只ひとつ
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寛政5年(1793年)8月25日、田上菊舎は姨捨山、26日、善光寺に参詣。
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二十六日、善光寺へ詣ふで、只有難さ身にあまりて
袖の露に光る大悲や寺の月
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寛政8年(1796年)8月17日、生方雨什は善光寺に参詣、句を詠んでいる。
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十七日朝まだき、御堂に詣けるに遠近の人むれ居て声もおしまず仏の御名を唱ふ。ともし立并べたるにこがねちりばめしミまへのかざりかゞやきてずしやかなるに、鉦打ならし今や戸張かゝぐるにぞ。ミな筵に額をあてゝあまたゝび拝ミ奉るも尊し。
御戸張の光身にしむ旦(あした)哉
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寛政9年(1797年)3月、常世田長翠は戸谷双烏、亀田几外と善光寺詣でをする。
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朝心木草になれと願ひけり
| 長翠
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春草の露にまぎるゝなミだかな
| 几外
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日に月に花の朝鐘満るかな
| 双烏
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寛政9年(1797年)秋、鶴田卓池は信濃行脚で再び善光寺を訪れている。
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善光寺
秋の夜は何につけても月よかな
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享和元年(1801年)3月28日、井上士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸から帰る途中で善光寺を訪れた。
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旅立日は二月廿八日也。行程二百里。半時仏前に坐する事なし。けふ又三月廿八日なり。善光寺の如来前に通夜して仏恩を報ず。吾祖はこゝに百日の歩みをはこび給ふとぞ。けふ祖師の忌日に逢ふて晨朝一時の御経を聞こと、是また不思議の宿善なり。
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朝がすみ二重ひらかせ給ひけり
| 松兄
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月仏信のへ華のころに来て
| 卓池
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文化2年(1805年)8月、川村碩布は善光寺を訪れて句を詠んでいる。
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善光寺
ひる中を小鳥のさはぐ御堂かな
『穂屋祭紀行』 |
文政7年(1824年)5月、川村碩布は「善光寺詣」の旅に出立。
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そもそもよし(善)光寺ハ布金(諷経カ)の霊場にして、龕前のしめやかなる事承るにまさりぬ、伝燈の光り鳧鐘の響きハさらなり、悲智兼運して雲霞の老若念珠をつまくり寂黙せさるハなし、されハ此国界をはなるゝ事今日にありや、九品蓮台の生、この国界にありや
夏の夜のたゝたゝ深く成にけり
『善光寺詣』 |
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