高浜虚子の旅

「最上川」

indexにもどる

 昭和31年(1956年)6月4日、高浜虚子は上野発。5日、羽黒山に登り、芭蕉の跡を訪ねた。

 六月四日。眞下眞砂子を帶同して家を出た。上野驛で年尾、京極杞陽、市川東子房も加はつた。途中から伊藤柏翠も加はつた。板谷峠を越えて小さい川が北に流れてゐるのを見た。これが最上川の源流との事であつた。

 地圖で見る天童といふ處が、今夜一泊する處となつてゐた。今から凡そ七十年の昔、子規は仙臺から廣瀬川沿ひに遡つて作並温泉に出で、それより九十九折なる山道を辿つて、天童、楯岡の追分に出たと「はて知らずの記」には書いてある。併し子規は天童に出ずに泊つてゐるのである。

 私等は唯作並温泉は彼方とばかり遠望した許りで、天童の宿に著いた。こゝはもと、二萬石の城下町であつた。明治年間に地を掘つて温泉が湧き出で、今は田の中に數軒の温泉宿がかたまつてゐた。

 六月五日。自動車で一路羽黒山に向つた。

 大石田といふ町を過ぎる。最上川の舟著場であつたので子規はこゝから舟に乘つた。

 元禄の昔、芭蕉もこゝに一泊して、誹諧一巻を巻き、こゝから舟に乘つた。

 最上川の流れを見ようと、眞砂子は車から下りて家の間の路地に這入つて行つた。

「幅の廣い水が石崖の下を流れてゐた。」

と話した。板谷峠で見た小さい流れが、米澤、大沼等を迂回して、他の諸川を合し、こゝではもう大河となつてゐるのであつた。

 猿羽根峠といふ峠にかゝる。

桑大樹家を夏蠶飼ふ
         虚子

 峠の頂上に休む。そこには茶店が二軒ばかりある。振り返つて見ると重疊たる山の間に、二三ケ所湖のやうなものが見える。それが斷續して見える最上川の水であつた。

 峠を下りて最上川に沿うて車は走る。

 芭蕉は清川といふ處で舟をあがつたものらしい。私等もその芭蕉の下りたといふ舟著場らしい跡を見た。

 間もなく最上峡といふ、兩岸に山の迫つてゐる處に出た。

夏山の襟を正して最上川
   虚子

鮭簗といふものかゝり最上川
   同

 こゝの景觀頗るよし。總じて最上川はよき川なり。

 それから更に車を驅ると庄内平野にさしかゝり、車は羽黒山麓の手向村といふのに著いた。こゝに社務所があつて小憩。少し脚を痛めてゐた年尾等は自動車で別の道をとる事になつたが、杞陽、柏翠、その他山形から来た東郊等の人々はこれから、千五百級の石段を登ることになつた。私にも是非石段を登れとの事で駕が用意してあつた。眞砂子と二人駕に乘つた。

駕二挺守らせたまへほとゝぎす
   虚子

 石段の兩側には何百年、或は千年ともいふ杉の大木が連なつてゐた。幾多の事變にも伐採をまぬかれて、よく今日迄保存されて來たものと思ふ。日光、高野山、箱根等に較べてずつと整つた立派な並木であつた。

 駕を下りて出羽神社に參詣し、齋館といふのに一泊した。

俳諧を守りの神の涼しさよ
         虚子

 俳句會。

 六日朝、齋館の縁から遠く庄内平野を俯瞰した。鳥海山は雲を脱いでその雄姿を見せてゐた。

 最上川は延々と、その廣い水を日本海の方まで延ばしてゐるのが遠望された。

(東京新聞 三一・六・二三)

高浜虚子の旅に戻る